『記』『紀』に、近江国坂田郡出身の允恭天皇の后妃が2人みえます。
后について、『記』に「意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命」と記されます。
忍坂之大中津比売は、『記』応神段の若野毛二俣王系譜にもみえ、『上宮記』逸文系譜に「践坂大中比弥王」と記されます。(→ 『記』若野毛二俣王系譜)
「忍坂」は、奈良県桜井市忍阪を示し、允恭の后のほかにも、近江国坂田郡との密接な関係が認められます。(→ 近江国坂田郡と忍坂)
また、『紀』允恭紀7年12月条に、忍坂大中姫の妹、弟姫(衣通郎姫)を妃とし、和泉国和泉郡の藤原宮に住まわせたことが記され、允恭紀8年2月条・9年2月条・8月条・10月条・10年正月条・11年3月条に、天皇が頻繁に宮を訪れ、さらに、妃のために「藤原部」を定めたことがみえます。
「藤原」の名称から、『記』若野毛二俣王の系譜の「藤原之琴節郎女」、『上宮記』逸文系譜の「布遅波良己等布斯郎女」が「弟姫」にあたると考えられています。
允恭天皇は、大和国城上郡忍坂、近江国坂田郡、和泉国和泉郡と深い関係を築いていたことがわかります。
「茅渟宮」は茅渟県主によって経営されたと考えられていますが、茅渟県主が当地の有力者になるのは、雄略朝の坂本臣祖根臣の討伐後のことであり、允恭天皇の后妃伝承の年代に不審な点がみられます。(『日本歴史地名体系(JapanKnowledge)』大阪府:総論>茅渟)(→ 坂本臣祖根臣討伐と難波吉士の賜姓)(→ 『記』『紀』允恭段への疑義)
◇ 『記』は、木梨之軽太子の妹、軽大郎女の亦の名を「衣通郎女」とする。
◇ 弟姫の招聘に尽力した「中臣烏賊津使主」は、『帝皇編年記』所引『近江国風土記』逸文にみえる、近江国伊香郡與胡郷人「伊香刀美」と同一人物か。