『紀』允恭紀に、允恭天皇の妃の衣通郎姫の話がみえます。
允恭天皇の后の忍坂大中姫の妹であった弟姫は、衣のうちから光り輝くような美しさから衣通郎姫とよばれていました。
天皇はかねてより執心していた衣通郎姫を後宮に呼び寄せようと、后の了解を取り付け、姫の住む近江国坂田郡に中臣烏賊津使主を使者として送りました。
衣通郎姫は、后の嫉妬を恐れて入内を拒みますが、中臣烏賊津使主の捨て身の交渉(実は演技)にほだされて、倭の藤原宮に入り、妃のために藤原部が定められました。
その後、后が自殺未遂をおこすなど不穏な状況に耐えられず、衣通郎姫は茅渟宮に移り住むことになり、天皇は日根野での遊猟にかこつけて足繁く通いました。
『記』応神段の若野毛二俣王の系譜に「藤原之琴節郎女」、『上宮記』逸文に「布遅波良己等布斯郎女」とみえます。
着眼点は、次のとおりです。
〈 藤原部 〉
『続日本紀』天平宝字元年3月乙亥(27日)条に「今より以後、藤原部の姓を改めて久須波良部とし、君子部を吉美侯部とせよ」とみえ、藤原仲麻呂により講じられた、父祖の「藤原」の諱を避ける施策により、藤原部は久須波良部と称するようになりました。
『姓氏録』和泉国皇別に、葛原部がみえ、豊城入彦3世孫の大御諸別の後裔とされます。
同様に豊城入彦3世孫の御諸別の後裔と記される、珍県主(茅渟県主)が衣通郎姫の茅渟宮の経営に関与していたと推測されます。
〈 中臣烏賊津使主 〉
倭の春日の櫟井から、倭直吾子籠の家を経て、
◇ 『記』は、木梨之軽太子の妹、軽大郎女の亦の名を「衣通郎女」とする。
◇ 弟姫の招聘に尽力した「中臣烏賊津使主」は、『帝皇編年記』所引『近江国風土記』逸文にみえる、近江国伊香郡與胡郷人「伊香刀美」と同一人物か。