『紀』仁徳紀40年2月条に、雌鳥皇女と隼別皇子の話がみえます。
仁徳天皇は、妃にするために雌鳥皇女の家を訪ねると、機織りの女が次のような歌を詠み、雌鳥皇女は隼別皇子と親密な関係になっていたことを知ります。
ひさかたの 天金機 雌鳥が 織る金機 隼別の 御襲料
その時は、天皇は恨みに思うものの2人を咎めませんでしたが、次のような隼別皇子の舎人の歌を聞いて謀反心を知り、討伐を決めます。
隼は 天に上り 飛び翔り 斎が上の 鷦鷯取らさね
2人が伊勢神宮へ向けて逃げたことを知って、天皇は、吉備品遅部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡に殺害を命じ、その際に、后が雌鳥皇女のアクセサリ(腕輪・足輪)は奪わないように言います。
雄鯽と阿俄能胡は、素珥山(奈良県曽爾村)で隼別と雌鳥に追いつき、そこは何とか逃れたものの、伊勢の蔣代野で捕まり殺されてしまいました。
雄鯽と阿俄能胡は、雌鳥皇女のアクセサリを外して2人を廬杵河の辺に埋め、后にはアクセサリは見なかったと報告します。
新嘗祭の宴会で近江山君稚守山の妻と采女磐坂媛が上品な腕輪を着けているのを見て、后が訝しく思って問うと、阿俄能胡の妻から借りたものであることが判明します。
罪を認めた阿俄能胡は土地を献上して死罪を免れ、「玉代(たまて)」の地名の起源となりました。
『記』にも同様の話がみえ、2人を殺して腕輪を奪ったのは山部大楯連と記し、死罪となっています。
隼別皇子は、応神の子で、母は、『記』に「桜井田部連祖、島垂根の女糸井比売」、『紀』に「桜井田部連男鉏の妹糸媛」と記されます。
「国造本紀」に、穴門国造について、桜井田部連同祖とみえ、穴門国造(穴門直)が天津彦根後裔氏族と推測されることから、隼別皇子も天津彦根の関係勢力とみられます。
『記』『紀』仁徳段には、ほかにも天津彦根関係勢力とみられる大山守皇子討伐がみえ、一連の話は、仲哀・神功段の住吉大神出現をめぐる天津彦根の動向に連動するものと思われます。(→ 大山守皇子・額田大中彦皇子と山守と出雲)(→ 長門の住吉坐荒御魂神社)