雄朝津間稚子宿禰

允恭天皇の和風諡号は、『記』に「男浅津間若子宿禰」、『紀』に「雄朝津間稚子宿禰」と記され、大和国葛上郡の地名「朝妻(あさつま)」との関係が示されます。

「朝妻」は、奈良県御所市朝妻を遺称地とし、『紀』天武紀9年9月条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す」とあることから、御所市名柄の長柄神社の辺りも含むのではないかと推測されます。

「男」「雄」は、「大」「小」の「小」、「父」「子」の「子」、「兄」「弟」の「弟」を意味し、「朝妻」に父や兄にあたる人物がいた可能性を示します。

『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸条に、「大和朝津間腋上」の地に弓月王らが移住したと記されます。(当地に移住したのは、連れてきた葛城襲津彦の拠点であったためといわれます)(→ 平群木菟宿禰・葛城襲津彦と弓月君伝承

「腋上」は、御所市本馬・玉手・三室・池之内・蛇穴を含む平坦地に比定され、「掖上」の南方に「朝妻」が位置する関係となります。

いっぽう、『紀』允恭紀には「掖上」を舞台とする記述がみられます。

反正陵の造陵を怠けて罰されたことがみえる、葛城襲津彦の孫、玉田宿禰の拠点は、御所市玉手とされ、また、允恭の弔問に訪れた新羅の遣使が歩いた「琴引坂」は玉手に南接する地域にあります。(→ ヤマトタケルの白鳥陵

「朝妻」を名とする允恭は、「掖上」とも深い関係にあったことが窺われます。

また、『住吉大社神代記』「船木等本記」に「葛城阿佐川麻(あさづま)之伊刀比女」がみえ、その子孫が越に居住していることが記され、年代は特定できませんが、越と繋がりのある土地であることがわかります。(→ 「船木等本記」にみえる葛城と越の関係

◇ 「掖上」は、神武とその子彦八井耳、事代主神、孝昭・孝安など欠史8代系譜と深く関わる。(→ 葛城の掖上

◇ 允恭の后の出身地、近江国坂田郡にも「朝妻」の地名がみられる。(→ 近江国坂田郡の朝妻湊

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