『紀』允恭紀14年9月条に、明石の真珠の話がみえます。
天皇が淡路島で狩りをしたところ、獲物は沢山いるのに不猟で、占うと島の神は「明石の海の底にある真珠を我に祀れ」と言いました。
阿波国長邑の男狭磯という海人が海の底に光る大鰒を引き上げて息絶え、大鰒の腹にあった桃の実のような真珠を祀ると大猟となりました。
「阿波国長邑」については、「国造本紀」に「長国造 志賀高穴穂朝御世 観松彦色止命九世孫韓背足尼定賜国造」と記され、「長(なが)」は、令制下の阿波国勝浦郡・那賀郡とされます。
また、『続日本紀』宝亀4年(773)5月辛巳条に、阿波国勝浦郡領長費(長直)人立と前郡領長直救夫の名がみえ、勝浦郡の郡領氏族である長直は、長公と同族とみられます。
長公は、事代主神の後裔氏族であり、大和国葛上郡・紀伊国那賀郡・阿波国勝浦郡・那賀郡・土佐国土佐郡をつなぐ事代主神の交通体系が形成されています。(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)
「阿波国長邑の男狭磯(をさし)」は、事代主神と関わる人物と思われます。
事代主神の交通体系は、5世紀代の葛城襲津彦の交通体系を再編成して6世紀前半に成立したと推測されます。(→ 事代主神の年代観)
また、允恭天皇は、倭の五王の「済」に比定され、在位年代は441、442年〜461年と推定され、『紀』神功紀62年条の注に引用された『百済記』の記事の「壬午の年」は441年にあたり、葛城襲津彦とされる「沙至比跪」がみえます。(山尾幸久『古代の日朝関係』1989年、154頁・214頁)
5世紀半ばの大王ならば、言及されるのは、事代主神ではなく葛城襲津彦であるはずで、矛盾がみられます。
「阿波国長邑の男狭磯」の真珠伝承は、5世紀半ばではなく6世紀前半の話ではないかと思われます。
◇ 若野毛二俣王系譜にみえる、近江国坂田郡の意富々杼王・忍坂之大中津比売・藤原之琴節郎女らは、5世紀半ばではなく、6世紀前半(継体朝)の人物ではないか。