岡屋津

曾て、京都盆地の南部に、巨椋池という、巨大な淡水湖がありました。

宇治川・木津川・桂川の3河川が流入して、淀川が流出するという地形であることから池に面する津は、河川交通の要衝として繁栄しました。

なかでも、池の東端部の岡屋津は、淀川水運と古北陸道の結節点に位置するため、近江を経て、越前・若狭へ通ずる交通の拠点となっていました。

しかし、文禄3年(1594)、豊臣秀吉によって、宇治川左岸の堤防、槇島堤が構築され、津は、巨椋池から切り離されたため、衰退し、また、昭和の初めには巨椋池の大規模な干拓が行われ、景観も失われました。

岡屋津は、『和名抄』の山城国宇治郡岡屋郷、現在の京都府宇治市五ヶ庄の西部を中心とする地域にありました。

◇ 応神妃となった、和珥臣祖日触使主女宮主宅媛の一族は、岡屋津の北の木幡を本拠地とするが、岡屋津の経営にも関与していたと推測される。(→ 和珥臣祖日触使主女宮主宅媛と応神の結婚

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