『記』若野毛二俣王系譜にみえる、大郎子(意富々等王)は、三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等の祖と記されます。
大郎子(意富々等王)は、継体天皇の高祖父にあたります。
7氏のうち、三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君の5氏は、継体推戴に関与した、越前国・近江国を本拠地とする氏族とみられ、若干の異同はあるものの、『紀』『姓氏録』にも記載があります。
布勢君は、「布勢」の地名が各地にみられるため特定に至りませんが、近江国坂田郡に属する滋賀県長浜市布施町、伊香郡に属する高月町布勢、木ノ本町赤尾の布勢立石神社が注目されます。
筑紫之米多君は、『和名抄』の肥前国三根郡米多郷を本拠地とする氏族です。
「国造本紀」に、
筑志米多国造 志賀高穴穂朝 息長君同祖 稚沼毛二俣命孫都紀女加定賜国造
とみえ、息長氏と同祖関係にある、若野毛二俣王後裔勢力であることがわかります。
なぜ、継体関係勢力が越前・近江を遠く離れた肥前にいたのでしょうか。
肥前国三根郡米多郷は、佐賀県上峰町上米多・下米多を遺称地とし、背振山地から舌状に延びた目達原丘陵の南端にあたります。(吉野ヶ里遺跡の南東2.7km)
付近の景観は現在と異なり、筑後川が大きく蛇行を繰り返し、米多地区の南東2.0kmに、筑後川水運の要衝、江見津がありました。
現在の切通川と開平江川は、筑後川の旧流路で、切通川と開平江川が連結してつくる逆U字形の頂部にあたる江見津は、江戸期に満潮時に100石以上の船が上ってくるほどの舟運がありました。
(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』佐賀県:三養基郡>三根町>江見村>江見津)
江見津は、古代の筑紫米多君の重要な経済基盤であったと思われます。
ところで、開平江川の東側、佐賀県みやき町天建寺は、『和名抄』の肥前国三根郡葛木郷にあたり、『三代実録』貞観15年(873)9月16日条にみえる肥前国の葛木一言主神に比定される葛城神社が鎮座します。
(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』佐賀県:肥前国>三根郡>葛木郷)
筑紫米多君の拠点の至近が、葛城氏の拠点であったことに注目したいと思います。
また、『紀』雄略紀10年9月条・10月条にみえる、水間君の犬の事件の記述は、当該地域に関わるのではないかと推測します。
身狭村主青等が持ち帰った呉からの献上物の鵞鳥を、筑紫で、水間君の犬が食い殺してしまい、水間君は、鴻10隻と養鳥人を献上して贖罪しました。
〈別本に云はく、是の鵞、筑紫の嶺県主泥麻呂の犬の為に囓はれて死ぬといふ。〉という注があり、犬の所有者を、嶺県主泥麻呂とする説があったことがわかります。
水間君と嶺(三根)県主の混交が起こり得る土地として、筑後川の住吉湊が浮かびます。
住吉湊(福岡県久留米市安武町住吉)は、西北西3.5kmの江見津と同様、江戸期には大船が航行する筑後川の河川交通の要衝として栄えました。
(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』福岡県:久留米市>旧三潴郡地区>住吉村)
住吉湊は、水間君(水沼君)の本拠地、筑後国三潴郡の郡衙比定地、道蔵遺跡(福岡県久留米市大善寺町中津)に北接し、筑後川の対岸は、肥前国三根郡葛木郷となります。
江見津と住吉湊は、葛木郷の東西にそれぞれ位置することがわかります。
雄略朝には、葛城氏の勢力はまだ衰えておらず、葛城氏のもとで、水沼君と三根県主が港津経営に関与していたのではないかと思われます。
犬の事件を契機として、王権によって港津の直接掌握がなされ、(その後、混乱があって)筑紫米多君が出てくるという時系列を推測します。
◇ 継体父系母系勢力の拠点は、葛城襲津彦の拠点との重複が顕著に認められる。(→ 継体と葛城襲津彦の拠点の相関性)