和珥臣祖日触使主女宮主宅媛と応神の結婚

『記』『紀』に、応神と和珥臣祖日触使主女宮主宅媛の結婚の記述がみえます。

『記』によると、応神は、宮主宅媛と木幡村で出会いました。

木幡村とは、京都府宇治市木幡であり、当時、南西に、巨椋池が広がり、木幡の南には、淀川水運と古北陸道を繋ぐ結節点として、河川交通の要衝である、岡屋津がありました。(→ 岡屋津

応神が宮主宅媛の家で饗応を受けた際の歌に、「この蟹や 何処の蟹 百伝う 角鹿の蟹」とあり、岡屋津の交易の産物とみられる、角鹿(敦賀)の蟹が饗されていることがわかります。

応神と宮主宅媛とのあいだには、菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女が生まれましたが、子どもたちは、悲劇的運命をたどります。

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