『紀』仁徳即位前紀に、倭屯田の屯田司を出雲臣祖淤宇宿禰が務めることに対して、額田大中彦皇子が抗議する話がみえ、理由を次のように述べています。
是の屯田は、本より山守の地なり。
是を以て、今吾、将に治らむとす。爾は掌るべからず。
倭屯田は「山守の地」であること、額田大中彦皇子は「山守の地」を治める立場にあること、しかし、現在、出雲臣が倭屯田を治めていることがわかります。
額田大中彦皇子の兄である大山守皇子も、名前から「山守」に関係すると思われます。
『姓氏録』右京皇別下に、大山守皇子の後裔氏族として、日置朝臣がみえます。
『出雲国風土記』に、出雲国出雲郡大領、日置臣佐底麿、旧大領、日置部臣布弥(佐底麿の祖父)がみえ、出雲国の斐伊川下流地域の有力在地勢力は、日置臣・日置部臣となっています。
大山守皇子・額田大中彦皇子の「山守」兄弟は、出雲と近い関係にあり、利害関係も交錯することが窺われます。
また、『記』『紀』に、山守部の設置の記述が、次のようにみえます。
此の御世に、海部・山部・山守部・伊勢部を定め賜ひき。
『記』応神記
諸国に令して、海人及び山守部を定む。
『紀』応神紀5年8月条
『紀』仁徳紀62年是歳条には、額田大中彦皇子が闘鶏(都祁)に狩りに行き、氷室の氷を仁徳に献上したことが記され、額田大中彦皇子の山部的性格がうかがえます。
また、額田大中彦皇子の名代を額田部とする見解がありますが、『記』『紀』のウケヒ神話において、額田部連の祖神、天津彦根は、出雲臣の祖神と兄弟関係にあり、やはり、出雲との関係が認められます。