矢田皇女と矢田部

応神天皇は、木幡で出会った和珥臣祖日触使主女宮主宅媛とのあいだに、菟道稚郎子・矢田皇女・雌鳥皇女という3人の子をもうけました。

菟道稚郎子は大鷦鷯皇子(仁徳)と王位を譲り合ううちに亡くなり、雌鳥皇女は大鷦鷯皇子から求婚されますが隼別皇子と親しくなって逃避行の後に殺され、矢田皇女は仁徳の妃となります。

『記』に「八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めき」と、矢田皇女のために矢田部(八田部)が定められたことがみえます。

矢田皇女の母について、『紀』は「和珥臣祖日触使主女宮主宅媛」、『記』は「丸邇比布礼能意富美女宮主矢河枝比売」と記しますが、「天孫本紀」では次のように、「物部山無媛」とあり、和珥臣ではなく物部連の出身とされます。

此連公。軽嶋豊明宮御宇天皇立為皇妃。

誕生太子兎道稚郎皇子。次矢田皇女。次雌鳥皇女。

其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后。

物部山無媛の弟、物部大別について次のように記されます。

此連公。難波高津宮御宇天皇御世。詔為侍臣。奉祭神宮。

軽嶋豊明宮御宇天皇太子兎遅稚郎子同腹妹矢田皇女。

難波高津宮御宇天皇立為皇后。而不生皇子之時。詔侍臣大別連公。

為皇子代后号為氏。便為氏造。改賜矢田部連公姓。

矢田皇女が仁徳妃となり矢田部が定められた時に、叔父にあたる物部大別に対し、矢田部連を賜姓されたことがみえます。

また、物部山無媛の祖父、物部武諸隅について次のように記されます。

此連公。磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年。詔群臣曰。

武日照命従天将来神宝。蔵于出雲大神宮。是欲見焉。

則遣矢田部造遠祖武諸隅命。使分明撿定献奏。

物部武諸隅は、『紀』崇神紀60年7月条にみえる「矢田部造遠祖武諸隅 〈一書に云はく、一名は大母隅といふ〉」を指します。(→ 出雲振根の討伐

『紀』によれば、大母隅は武諸隅の別名ですが、「天孫本紀」では、大母隅は武諸隅の弟とされます。

矢田部造は、天武朝(683年)に連の姓を賜って矢田部連となり、『姓氏録』左京神別上に、矢田部連について「伊香我色乎命の後なり」と物部連の一族とされます。

「天孫本紀」の矢田皇女の出自を矢田部造遠祖武諸隅の一族とする系譜は、『記』の矢田皇女の名代を矢田部とする記述、『紀』崇神紀60年7月条の武諸隅を矢田部造遠祖とする記述、『姓氏録』の矢田部連についての記述と整合することがわかります。

「天孫本紀」の系譜を図にすると次のようになります。

                  応神
                   │┌兎道稚郎皇子
                   ├┼矢田皇女
                   ││ │
                   ││ 仁徳
                   ││
                   │└雌鳥皇女
─┬物部武諸隅連公─物部多遅麻連公┬物部山無媛連公
 └物部大母隅連公        └物部大別連公

「天孫本紀」に従えば、矢田皇女の曾祖父は、吉備津彦による出雲振根討伐に関与したことになります。

また、出雲で振根が討伐された後、出雲の中心勢力となったとみられる淤宇宿禰が、倭屯田の屯田司として『紀』仁徳即位前紀にみえる点も、時系列として整合しています。(→ 大山守・額田大中彦と山守・出雲

目次