『紀』継体即位前紀に、継体の出自と即位事情について、次のようにみえます。
男大迹天皇〈更の名は彦太尊。〉は、誉田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。母を振媛と曰す。振媛は、活目天皇の七世の孫なり。
天皇の父、振媛が顔容姝妙しくして、甚だ媺色有りといふことを聞きて、近江国の高嶋郡の三尾の別業より、使を遣して、三国の坂中井〈中、此をば那と云ふ。〉に聘へて、納れて妃としたまふ。遂に天皇を産む。
天皇幼年くして、父の王薨せましぬ。振媛廼ち歎きて曰はく、「妾、今遠く桑梓を離れたり。安ぞ能く膝養ること得む。余、高向に帰寧ひがてらに、〈高向は、越前国の邑の名なり。〉天皇を奉養らむ」といふ。
彦主人王(応神の4世孫)(継体が5世孫なので)は、「近江国高嶋郡の三尾の別業」から「三国の坂中井」へ遣使して、美貌の評判高い、振媛(垂仁の7世孫)を迎えて妃とし、2人のあいだに継体が生まれたが、継体が幼い頃に父が亡くなり、母、振媛は、子育てのため、故郷の「高向」(越前国の邑)へ帰った、と書かれます。
この記述は、『釈日本紀』所引『上宮記』逸文と内容が一致することが知られています。
『上宮記』逸文に、系譜の記述において、継体の父、汙斯王は、凡牟都和希王(応神)から数えて4世孫、母、布利比売は、伊久牟尼利比古大王(垂仁)から数えて7世孫となり、『紀』の世数と一致します。
また、父(汙斯王)が「弥乎国高嶋宮」から「三国の坂井県」へ遣使して、布利比売(振媛)を迎えて妃とし、2人のあいだに継体が生まれたが、父が亡くなり、子育てのため、故郷「三国」の「多加牟久村」に帰った、と記され、同じ内容となっています。
(→ 『上宮記』逸文)
継体の出自と即位事情について、『紀』と『上宮記』は、同じ史料を参照したと推測されています。
◇ 振媛が継体の子育てのために帰った故郷、「三国の坂中井」「高向(越前国の邑)」、「三国の坂井県」「多加牟久村」は、『和名抄』の越前国坂井郡高向郷に比定される。(→ 越前国坂井郡高向郷)
◇ 継体の父、彦主人王が居た「近江国高嶋郡の三尾の別業」「弥乎国高嶋宮」は、『和名抄』の近江国高島郡三尾郷に比定される。(→ 近江国高島郡三尾郷)