『紀』允恭紀14年9月条に、赤石(明石)の真珠の話がみえます。
允恭天皇が淡路島の狩りで獲物がたくさんいるのに不猟となり、理由を占うと島の神の祟りとわかり、「赤石の海の底の真珠を我に祀れ」と託宣されました。
ところどころの海人が海に潜りましたが海が深くて底に至れず、ただ1人、阿波国長邑の男狭磯という海人が海の底に光る大鰒を見つけて引き上げ、息絶えてしまいました。
大鰒の腹にあった桃の実のような真珠を神に祀ると大猟となり、人々は男狭磯を手厚く葬り、その墓は今も残っているそうです。
「阿波国長邑」の「長(なが)」は、阿波国那賀郡・勝浦郡を示し、男狭磯は、事代主神の後裔氏族である、郡領氏族の長直支配下の有力な海人であったと推測されます。(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)
当該伝承は、允恭天皇による事代主神後裔勢力の掌握を意味するものと思われますが、事代主神の交通体系の成立は6世紀第1四半期と推測され、『紀』允恭紀の他の記述同様、時系列に疑義が認められます。