雄朝津間稚子宿禰

允恭天皇の和風諡号は、『記』に「男浅津間若子宿禰」、『紀』に「雄朝津間稚子宿禰」と記され、大和国葛上郡の地名「朝妻(あさつま)」との関係が示されます。(允恭の后の出身地、近江国坂田郡にも朝妻郷があります)

「朝妻」は、奈良県御所市朝妻を遺称地とし、『紀』天武紀9年9月条に「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜に看す」とあることから、御所市名柄の長柄神社の辺りまで含むものと思われます。

『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸条に「大和朝津間腋上」がみえ、腋上は、御所市本馬・玉手・三室・池之内・蛇穴を含む平坦地に比定され、掖上の南方に朝妻が位置する関係となります。

いっぽう、『紀』允恭紀には掖上を舞台とする記述が複数みられます。

5年7月条で反正陵の造陵を怠けて罰された玉田宿禰の拠点は、御所市玉手とされ、また、42年11月条の允恭の弔問に訪れた新羅の遣使が歩いた「琴引坂」は玉手に南接する地域にあります。

「朝妻」を名とする允恭は、「掖上」とも深い関係にあったことが窺われます。

また、『住吉大社神代記』「船木等本記」に「葛城阿佐川麻(あさづま)之伊刀比女」がみえ、その子孫が越に居住していることが記され、年代は特定できませんが、越と繋がりのある土地であることがわかります。(→ 「船木等本記」にみえる葛城と越の関係

「男」「雄」は、大小の小、父子の子、兄弟の弟を意味し、允恭天皇の名に、「朝津間稚子宿禰」とでもいうような父や兄にあたる人物がいた可能性がほのめかされています。

『記』『紀』では、欠史8代の孝昭天皇・孝安天皇が掖上と深い関係をもち、その系譜のなかにも天忍人・天忍男という対の関係にある人物がみられることが注目されます。(→ 葛城の掖上

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