允恭は、倭の五王の「済」に比定され、在位年代は、441、442年〜461年と推測されます。
しかし、『記』『紀』の允恭段の記述には複数の疑点がみられます。
西郷信綱氏は、
- 允恭の和風諡号(『記』男浅津間若子宿禰命『紀』雄朝津間稚子宿禰命)は、葛城の地名「朝嬬」を示すが、他の天皇は、和風諡号が物語の中味とかかわることが多いのに、允恭はそれがない。
- 宮について、『記』は「遠飛鳥宮」とあるが、『紀』にはどこに都したとも記していない。
という2点をあげ、「仁徳以下の歴代は実在した君主と考えるのが一般だが、必ずしも確かな実在感が伝わって来ないように思われる」と記しています。(西郷信綱『古事記注釈7』2006年、170頁)
その他にも次のような疑点がみられます。
- 前後の王をみると、王位継承抗争を経て即位しているのに対し、允恭は、自ら望まないのに群臣から推挙されて即位に至っている。(群臣推戴による即位は、雄略没後、清寧朝からみられる)
- 仁徳から雄略までの6人の大王のうち4人は、日向諸県君の血統を継ぐ后妃を娶っている。例外は、反正と允恭である。反正后は、大和石上の勢力の出身である。允恭后は、近江坂田の出身であり、他の王と比べ異質さが際立つ。(→ 日下の后妃)
- 允恭の和風諡号に含まれる、葛城の地名「朝妻」は、葛城襲津彦が率いて来た弓月君等の居住地とされ、襲津彦自身の拠点ではないかと思われる。襲津彦の活躍期と允恭の在位期は一部重なるにもかかわらず、允恭段には、襲津彦についての記述がみえない。(→ 平群木菟宿禰・葛城襲津彦と弓月君の伝承)
- 『紀』允恭紀に、妃、弟姫(衣通郎姫)が「茅渟宮」に住み、允恭が頻繁に出かけた記述がみえる。「茅渟宮」は、大阪府和泉市府中付近に比定され、茅渟県主の関与が推測される。しかし、茅渟県主が在地有力勢力となるのは、雄略朝、坂本臣祖根臣の討伐後である。(→ 坂本臣祖根使主討伐と難波吉士の賜姓)
- 『紀』允恭紀に、明石の海の真珠の伝承がみえる。事代主神を背景とした話と推測され、年代観は、6世紀前半と思われる。(→ 『紀』允恭紀の明石の真珠伝承)
『記』『紀』の允恭段の記述は、5世紀中頃を示すものではなく、早くとも5世紀後半、雄略朝以後の状況(おそらくは、6世紀前半、継体朝か)と思われます。
『記』若野毛二俣王系譜は、継体を応神5世孫とみせるための述作という見解があります。
そのなかで、若野毛二俣王の子、意富々杼王・忍坂之大中津比売・藤原之琴節郎女については、後2者が允恭の后妃であり、允恭が「倭の五王」の「済」に比定されるため、5世紀中頃の人とみられます。
しかし、允恭を含めて、5世紀後半から6世紀前半の人である可能性が高いと考えます。