継体と葛城襲津彦の拠点の相関性

継体と葛城襲津彦の拠点について次のような相関性が認められます。

① 『紀』継体紀5年10月条に、継体が「山背の筒城」を都としたことがみえます。

『記』『紀』垂仁系譜にみえる、継体母系三尾君の祖の母、カニハタトベは、様々な点で南山城(宇治郡・綴喜郡・相楽郡)との関係を示すことから、三尾君とつながる勢力の拠点が綴喜(筒城)にあったと推測されます。(→ カニハタトベ・カリハタトベ

いっぽう、『記』『紀』仁徳段に、后の磐之媛が夫に腹を立て「山背筒城」に移り住んだことがみえます。

磐之媛は葛城襲津彦の子であり、「我が見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」という歌にあるように、出身地が葛城であるにもかかわらず、筒城に移り住んだことに注目します。

筒城宮において、葛城襲津彦後裔の的臣祖口持臣妹国依媛が磐之媛に仕えており、筒城を拠点とする葛城襲津彦関係勢力の支援を仰いだのではないかと思われます。

② 『記』『上宮記』逸文の若野毛二俣王系譜に、継体父系一族が記されます。

継体の高祖父の妹、忍坂大中姫は、允恭の后となりました。

允恭の和風諡号は、『記』に男浅津間若子宿禰、『紀』に雄朝津間稚子宿禰と記され、「浅津間」「朝津間」は、大和葛城の「朝妻」に因むと考えられています。(→ 雄朝津間稚子宿禰

また、継体父系一族の拠点である近江国坂田郡に、琵琶湖水運の要衝「朝妻湊」があります。(→ 近江国坂田郡の朝妻湊

継体父系は、2つの点において「朝妻」と関係します。

いっぽう、『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸条に、弓月王らが「大和朝津間腋上」に到来したことが記され、それに対応する記事が『紀』応神紀14年是歳条・16年8月条にみえます。

『紀』には、弓月君等を率いて来たのは葛城襲津彦と記され、弓月君等は、襲津彦の拠点である、大和葛城の「朝妻(朝津間)」に移住したと推測されています。(→ 平群木菟宿禰・葛城襲津彦と弓月君伝承

③ 継体の9人の后妃のなかで、最初の妃は、三尾角折君の妹稚子媛とされます。

三尾角折君の拠点について、近江・越前2説がありますが、越前国足羽郡の角折説に注目します。

足羽郡の角折は、足羽川と日野川が合流する要衝で、奈良時代には、南に、東大寺の初期荘園、道守庄が展開し、荘園経営の中心勢力は、葛城襲津彦後裔氏族の生江臣でした。(→ 三尾角折君の本拠地

また、『和名抄』に越中国射水郡布師郷がみえ、葛城襲津彦後裔の布師臣の拠点とみられます。

④ 『記』若野毛二俣王系譜に、継体の高祖父、大郎子(意富々等王)の後裔氏族として、筑紫之米多君がみえます。

筑紫米多君の拠点は、『和名抄』の肥前国三根郡米多郷、佐賀県上峰町上米多・下米多に比定され、周辺で大きく蛇行を繰り返していた筑後川の港津、江見津との関連が窺われます。

いっぽう、江見津の東は、『和名抄』の肥前国三根郡葛木郷であり、葛城氏の拠点と推測されます。(→ 筑紫之米多君

⑤ 『紀』継体紀25年12月条に、継体が「藍野陵」に葬られたことが記されます。

大阪府茨木市太田の茶臼山古墳に治定されますが、『延喜式』諸陵寮に、「三嶋藍野陵」「在摂津国島上郡」とあり、茶臼山古墳が島下郡域にあることから、真の継体陵は、高槻市郡家新町の今城塚古墳とされます。

継体は、摂津国三島と深い関係にあったと推測されます。

『紀』に、三嶋溝橛耳の娘と事代主神の通婚伝承がみえます。

事代主神後裔氏族の痕跡をたどると、摂津の「三嶋溝橛耳」の拠点を起点として、摂津長柄、大和の率川・長柄・三輪、雲梯、葛城を経て、紀伊の紀ノ川中流域から阿波の勝浦・那賀へと渡り、土佐へ至る、事代主神を媒介とする交通網の存在がうかがわれます。

いっぽう、大和葛城から紀ノ川を経由して土佐へ至る、葛城襲津彦関係勢力の交通網も確認されます。(→ 三嶋溝橛耳と事代主神後裔氏族)(→ 土佐国土佐郡の葛木男神社・葛木咩神社

①〜⑤をみてくると、山城綴喜、近江坂田、越前足羽、肥前三根の4地域について、継体と葛城襲津彦の拠点が重複し、また、三嶋溝橛耳の伝承をはさんで、間接的に、継体と葛城襲津彦の交通体系が一致することがわかります。

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