『紀』神代紀第8段本文に、草薙剣の出現についての記述がみえます。
時に素戔鳴尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。
尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。
故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。
此所謂草薙剣なり。
〈草薙剣、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。
一書に云はく、本の名は天叢雲剣。
蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。
日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉
素戔鳴尊の曰はく、
「是神しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安けらむや」とのたまひて、天神に上献ぐ。
スサノヲが八岐大蛇の尾から草薙剣を得て天神に献上したことが記されます。
また、「一書云」として、草薙剣は、大蛇の上に常に雲がかかっていたことによるのか、もとは天叢雲剣とよばれており、ヤマトタケルの時代に草薙剣と改名されたことが記されます。
また、『紀』神代紀第8段一書第2、第3に次のようにみえます。
此は今、尾張国の吾湯市村に在す、即ち熱田の祝部の掌りまつる神是なり。
『紀』神代紀第8段一書第2
此の剣は昔素戔鳴尊の許に在り。今は尾張国に在り。
『紀』神代紀第8段一書第3
草薙剣は、熱田神宮に祭られ現在に至ります。
『延喜式』神名帳に尾張国愛智郡の名神大社として「熱田神社」と記され、熱田台地の南端、伊勢湾に突き出た岬上にありましたが、周辺の干拓と都市化により景観は当時と大きく異なっています。
尾張連による草薙剣祭祀はいつ開始されたのか。
倭王権と尾張連の関係が最も緊密であった年代の特定が必要と思われます。
『記』系譜に、尾張連祖建伊那陀宿禰の娘と五百木之入日子の子として品它真若王がみえ、応神が品它真若王の3人の娘と婚姻して子をもうけ、そのうちの1人が仁徳です。
『記』に、仁徳を「誉田の日の御子」とよぶ記述がみえ、5世紀初頭の実在の大王とされる仁徳が尾張と密接な関係にあったならば草薙剣の祭祀の創始もその頃かと思われます。
しかし、尾張連祖建伊那陀宿禰を、仁徳に繫年すべきか、神話の域に属する五百木之入日子に繫年すべきか、確定的に判断することは難しいと思います。
また、次のような観点から、『記』応神系譜を5世紀初頭に繫年することに疑問があります。
八岐大蛇神話には、熱田神宮の草薙剣と石上神宮の布都御魂の2つの剣が登場し、前者は出雲、後者は吉備の鉄の精錬・鍛造勢力の象徴とみられ、吉備・出雲の鉄が一体的に語られています。(→ 石上神宮の起源伝承)
また、吉備地域の伝承において吉備を掌握したのは吉備津彦とされますが、『紀』崇神紀60年7月条において出雲を討伐したのも吉備津彦とあります。(→ 『記』『紀』出雲討伐伝承)
吉備津彦と草薙剣を熱田へ齎したヤマトタケルはどのような関係にあるのか。
2つの点が注目されます。
1つは、『記』では出雲討伐はヤマトタケルが行っており、『記』『紀』のあいだでヤマトタケルと吉備津彦の混交がみられること、1つは、熱田神宮摂社の氷上姉子神社の存在です。
熱田神宮の創始に関わる社伝を持つ氷上姉子神社の「氷上姉子」は、『紀』崇神紀60年7月条にみえる丹波の氷上の氷香戸辺ではないかと思われます。
『紀』崇神紀によると、出雲振根討伐は大きな禍根を残し、出雲の勢力による大神の祭祀が長く中止される事態となり、丹波の氷上の氷香戸辺があいだに入って解決に至ったことがみえます。
王権が簒奪した出雲の神宝とは、具体的には天叢雲剣(草薙剣)を示し、吉備津彦が懇意の尾張連に与えてしまったため、氷香戸辺が「天に返したかたち」で祭祀を行うよう大王に提言し、尾張連による熱田での祭祀が開始されたと推測します。(→ 熱田神宮摂社の氷上姉子神社)
『記』『紀』に、草薙剣について「天神に上献ぐ」「天照大御神に白し上げき」とみえるのはこのことを示すのではないかと考えます。
『記』『紀』の研究において、吉備・近江の製鉄・鍛造勢力は、5世紀後半から6世紀前半にかけて大王直属とされたことが明らかとなっており、出雲も同時期の可能性があります。
当該期の尾張をめぐる動向として、6世紀初めに王位継承に混乱が生じ、尾張連草香女目子媛と婚姻関係にあった継体天皇が即位したことが注目されます。
継体は、尾張連に「天に返したかたち」での草薙剣祭祀を受け入れてもらう代わりに、目子媛との子2人を後継の大王とする盟約を結んで即位に至ったのではないかと思います。