『紀』垂仁紀3年3月条一云に、次のような記述がみえます。
是に、天日槍、菟道河より泝りて、北近江国の吾名邑に入りて暫く住む。
復更近江より若狭国を経て、西但馬国に到りて則ち住処を定む。
是を以て、近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従人なり。
天日槍が但馬国に定住する前に「近江国吾名邑」に住み、「近江国鏡村」の陶人が従者となったことが記されます。
「近江国吾名邑」は、『和名抄』の近江国坂田郡阿那郷とされます。
『和名抄』の近江国坂田郡には、大原・長岡・上坂・下坂・細江・朝妻・上丹・阿那・駅家の9郷がみえます。
大橋信弥氏によると、駅家郷は、東山道の横川駅に因むもので、それ以外の阿那郷を除く7郷については、遺称地から特定可能で、上坂・下坂・細江の3郷は、北部の長浜市域、朝妻・上丹・阿那の3郷は、南部の横山丘陵西側、大原・長岡の2郷は、南部の横山丘陵東側とされます。
(『和名抄』の記載順が、南部の横山丘陵東側、北部の長浜市域、南部の横山丘陵西側と、反時計回りとなっていることから、阿那郷は、南部の横山丘陵西側に属し、朝妻・上丹2郷の近くにあったと判断されていると思われます。)
(大橋信弥「再び近江における息長氏について」(『古代豪族と渡来人』2004年)、『継体天皇と即位の謎』2020年、99~101頁))
さて、阿那郷を特定するにあたり、1つの問いを立ててみたいと思います。
「三吉と醒井は、どの郷域に属するのか」
三吉は、朝妻湊と東山道をつなぐ結節点にあたる交通の要衝であり、醒井は、壬申の乱の戦地の「玉倉部邑」、ヤマトタケル伝承の「居醒泉」(「玉倉部の清水」「居寤清水」)、東山道の横川駅の有力な候補地です。
また、2地域は、継体擁立勢力である息長氏の重要拠点でもあります。
(→ ヤマトタケル伝承と継体)
2地域は、南部の横山丘陵西側なので、朝妻・上丹・阿那の3郷のどれかということになります。
「朝妻郷」は、琵琶湖の湖岸の朝妻湊周辺なので、外れるかと思います。
「上丹(カムツニフ)郷」は、本来は丹生郷であったのが上下に分割されたと考えられていますが、『和名抄』に「下丹(シモツニフ)郷」はみえません。
「平城京二条大路木簡」に、「下入(丹)郷」の記載が認められます。
「上丹郷」の遺称地とみられる「上丹生」は、天野川支流丹生川上流域の地名であり、その北が「下丹生」です。
三吉と醒井は、「上丹」か「下丹」かといえば「下丹」です。
『和名抄』が三吉と醒井のような重要地域の所在郷を落とすとは考えにくく、「下丹郷」の別名が「阿那郷」なのではないかと思います。
『和名抄』の「上丹」の表記は、「加无津迩布」「加无都尓布」ですが、「迩布」「尓布」は、天日槍の定住した但馬国出石の周辺に顕著にみられる地名です。
(→ 売布(めふ)と女布(によう))
「近江国鏡村」については、滋賀県竜王町鏡を遺称地とし、鏡山北麓一帯に比定され、周辺には滋賀県下最大の須恵器窯跡群が分布します。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:蒲生郡>竜王町>鏡村)
「鏡」を冠した名をもつ人物として「鏡女王」がいますが、『延喜式』諸陵寮に「押坂墓、鏡女王、在大和国城上郡押坂陵域内東南、無守戸」とみえ、近江国坂田郡の息長氏と深く関わる忍坂(押坂)の地に、息長氏の血統を継ぐ舒明天皇・糠手姫皇女とともに葬られていたことがわかります。
また、雪野山の東麓、東近江市上羽田町・中羽田町・下羽田町は、『記』若野毛二俣王に、意富々杼王後裔氏族として記される波多君の拠点とされます。
「近江国鏡村」は、「近江国吾名邑」(近江国坂田郡阿那郷)と共通の属性をもつことが窺われます。
◇ 近江国蒲生郡の在地有力勢力は佐々貴山君であり、いっぽうで、天津彦根の要素もみられる。(→ 近江国蒲生郡の「出雲」の属性)
◇ 鏡山東麓の竜王町七里の石部神社は、『延喜式』神名帳の蒲生郡の石部神社の論社である。綾戸に苗村大明神が勧請される以前は近在の郷社であり、古くは磯部大明神と称された。石部(石辺)はクシヒガタ後裔であり、「クシヒガタ」「陶」は、三輪山の大物主神の祭祀者、大田田根子の出身地である茅渟の陶邑と属性が一致する。(→ 大物主神と大田田根子)