顕宗・武烈の后妃と陵墓

5世紀後半から6世紀前半まで、雄略朝〜欽明朝にかけて、大王と和珥春日の后妃による特殊な血統が継続します。(→ 和珥春日の后妃

当該期の大王のなかで、后妃のいない清寧は別として、顕宗・武烈のみがこの血統に属さないことに注目します。

顕宗の后は、難波小野王と称し、『紀』顕宗紀元年正月条の文注に「難波小野王は、雄朝津間稚子宿禰天皇の曾孫、磐城王の孫、丘稚子王の女なり」、『記』顕宗記に「石木王の女、難波王を娶りき」とみえます。

「允恭―磐城王―丘稚子王―難波小野王」という系譜が窺えますが、『記』『紀』允恭系譜に磐城王はみえず、それ以上のことはわかりません。

武烈の后は、春日娘子と称し、『紀』武烈紀元年3月条の文注に「未だ娘子の父を詳にせず」と記されます。

「小野」「春日」は、和珥春日の一族のウジ名なので、当該血統の傍系の女性かもしれませんが、他の大王と待遇に差があることに注目します。

顕宗・武烈は、この他に共通点が3点みられます。

1つは、陵墓が片岡にあることです。

顕宗は、『紀』に「傍丘磐杯丘陵」、『記』に「片岡の石坏岡の上に在り」、武烈は、『紀』に「傍丘磐杯丘陵」、『記』に「片岡の石坏岡に在り」と記され、両者の陵墓は同じ場所にあります。

『延喜式』諸陵寮をみると、顕宗・武烈以外の片岡の陵墓は、孝霊の片丘馬坂陵、茅渟皇子の片岡葦田墓の2例のみで、一般的な陵墓地とはいえず、被葬者と在地勢力のあいだに特殊な関係が推測されます。

顕宗・武烈は、「片岡の葦田」(大和川支流葛下川流域)を拠点とする、葛城襲津彦の子葦田宿禰の一族と親しい関係にあったとみられます。(→ 顕宗・仁賢の系譜と葦田宿禰

もう1つの共通点は、平群臣討伐との関係です。

『記』は顕宗、『紀』は武烈が平群臣討伐をしたと記します。

『記』は、女性(菟田首等女大魚)を争って、顕宗が平群臣祖志毘(しび)臣を殺し、『紀』は、武烈が、女性(物部麁鹿火女影媛)と平群鮪(しび)と通じたことを怒り、鮪とともに、専横が目に余る鮪の父、真鳥を殺したことが記されます。

原因が女性をめぐる争いであること、歌垣が舞台となることが共通し、『記』『紀』のあいだの錯綜の根底に、顕宗・武烈の属性の近しさがあるかと思われます。

もう1つの共通点は、『記』『紀』における「画期」です。

『紀』は、武烈を悪逆の限りを尽くした大王として描き、没後、王統は途絶え、越前から継体が招聘されます。

『記』は、顕宗を以て物語を終了し、その後は系譜のみの記述となります。

顕宗・武烈をめぐる、后妃・陵墓・平群臣滅亡・『記』『紀』の画期という、4つの共通点は互いに関連するものであり、5〜6世紀の歴史の核心に迫る糸口かと思われます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦

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