伊勢国鈴鹿郡・河曲郡(鈴鹿川中・下流域)について、5つの注目点があります。
① 『延喜式』神名帳の伊勢国河曲郡に、大鹿三宅神社がみえます。
伊勢大鹿首の奉祭神とみられます。
鈴鹿川下流右岸、三重県鈴鹿市池田町に鎮座する大鹿三宅神社が式内社とされますが、鈴鹿市神戸の十日市町にも同名社があり神戸宗社(神館飯野高市神社)に合祀されています。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):三重県:鈴鹿市>旧河曲郡地区>池田村)
また、鈴鹿川左岸の台地上の鈴鹿市国分町は、伊勢国分寺が所在したため「国分」を称しますが、平安期まで在地豪族の大鹿氏の本拠地であることから「大鹿村」とよばれていました。
御巫清直は『伊勢式内神社撿録』において、当地の菅原神社について、天神とは大鹿氏の祖天児屋命であるとして、式内社の大鹿三宅神社に比定します。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):三重県:鈴鹿市>旧河曲郡地区>国分村)
伊勢大鹿首について、『紀』敏達紀4年正月条と舒明即位前紀から、次のような系譜がわかります。
息長真手王────広姫
├───────押坂彦人大兄皇子
敏達〈渟中倉太珠敷〉 ├──舒明〈息長足日広額〉
├───────糠手姫皇女〈田村皇女〉
伊勢大鹿首小熊──菟名子夫人
近江国坂田郡の息長真手王女広姫と、伊勢国河曲郡の伊勢大鹿首女菟名子夫人が、敏達と婚姻し、それぞれの子がまた婚姻して舒明が誕生しており、近江国坂田郡と伊勢国河曲郡の勢力の密接な関係が窺われます。
② 『延喜式』神名帳の伊勢国河曲郡に、飯野神社がみえます。
鈴鹿市長太旭町に鎮座する飯野神社が式内社とされます。(池田町の大鹿三宅神社の東1.5kmにあたります)
長太(なご)地区は、伊勢湾に臨み、『和名抄』河曲郡海部郷に比定されます。
在地勢力は、海上交通に従事していたと思われます。
飯野神社は、鈴鹿市神戸と三日市にもあり、前者は、神館飯野高市神社(神戸宗社)であり、もとは西条村もしくは三日市村にあったが天文末年頃遷座したと伝わります。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):三重県:鈴鹿市>旧河曲郡地区>北長太村、旧河曲郡地区>神戸城下>石橋町>神館飯野高市神社)
大鹿三宅神社と飯野神社の論社の地域がほぼ一致していることがわかります。
『記』に、「飯野真黒比売」が、ヤマトタケルと弟橘比売の子、若建王と婚姻していることがみえます。
「飯野真黒比売」に関わる、『記』景行記・応神記の系譜は次のとおりです。
弟橘比売
├────────────────若建王
ヤマトタケル ├──須売伊呂大中日子王
├─息長田別王─杙俣長日子王─┬─飯野真黒比売
(一妻) ├─息長真若中比売
│ ├─若野毛二俣王┌─大郎子(意富々杼王)
│ 応神 ├─────┼─忍坂之大中津比売
└─百師木伊呂弁 ├─田井之中比売
├─田宮之中比売
├─藤原之琴節郎女
├─取売王
└─沙禰王
「飯野真黒比売」の妹「息長真若中比売」「弟比売(百師木伊呂弁)」から形成されるのは、近江国坂田郡の継体父系の若野毛二俣王系譜です。
神館飯野高市神社の鎮座地の小字「石橋町」は「真黒川」に架かる石橋に因みます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):三重県:鈴鹿市>旧河曲郡地区>神戸城下>石橋町)
「飯野神社」「真黒川」は「飯野真黒比売」に関わるかと思われ、(証左は不十分で慎重でなければなりませんが)「飯野真黒比売」の系譜も、近江国坂田郡と伊勢国河曲郡の関係を示す可能性があります。
③ 「飯野真黒比売」の夫「若建王」は、『紀』では「稚武彦王」と表記され、母は、『記』同様、弟橘媛ですが、弟橘媛について「穂積氏忍山宿禰女」と記します。
『延喜式』神名帳の伊勢国鈴鹿郡に、忍山神社がみえます。
忍山神社は、鈴鹿川中流域左岸、亀山市野村町に鎮座し、「忍山」は野村の古名です。
(→ 伊勢国鈴鹿郡の忍山神社・布気神社)
また、『和名抄』伊勢国三重郡采女郷は、穂積臣と同祖関係にある采女臣の拠点とみられます。
三重県四日市市采女町を遺称地とし、①の「大鹿村」を称した鈴鹿市国分町の北に接します。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):三重県:伊勢国>三重郡>采女郷)
鈴鹿川下流域に、穂積臣関係勢力の拠点が確認されます。
④ 『紀』継体紀に「穂積臣押山」がみえます。
「穂積臣押山」は、倭と百済との外交にあたるとともに、朝鮮半島の栄山江(ヨンサンガン)流域の「哆唎」を拠点に活動し、大王継体の片腕として比肩する権力を有していたと推測されます。
(→ 『紀』継体紀の穂積臣押山)
「物部伊勢連父根」と「吉士老」が「穂積臣押山」と行動を共にしています。
前者は、名に「伊勢」を含み、後者は、河曲郡の式内社である貴志神社が、伊勢湾に臨む鈴鹿市岸岡町(長太の飯野神社の南南西5km)にあるので、ともに鈴鹿川下流域勢力とみて矛盾はないと思われます。
(→ 物部伊勢連父根)
⑤ 『記』によると、ヤマトタケルは、「伊服岐能山」の神にやられた後、「居寤清水」「当芸野」「杖衝坂」「尾津前」「三重村」を経て、「能煩野」で絶命しました。
近江国坂田郡の伊吹山を降りて、鈴鹿山脈に入り、一旦、木曽三川の河口に降りた後、三重郡・河曲郡・鈴鹿郡へと向かっています。
「三重村」は、③の四日市市采女町に比定され、坂を登ると①の鈴鹿市国分町であり、「能煩野」は、鈴鹿市北部の大野・鞠鹿野・広瀬野などの台地の総称で、③の忍山神社はその麓にあります。
①〜⑤をみてくると、6世紀前半の継体朝、伊勢国鈴鹿郡・河曲郡(鈴鹿川中・下流域)に、穂積臣押山の統括する権力組織が形成され、外洋航海可能な船団を有し、継体との連携を契機として、近江国坂田郡と伊勢国鈴鹿郡・河曲郡の密接な関係が構築されたことが推測されます。
また、伊勢大鹿首は、穂積臣押山の組織の末裔とみられ、さらに、ヤマトタケルの系譜と伝承が近江国坂田郡と伊勢国鈴鹿郡・河曲郡の勢力と深く関わることが窺われます。