『記』『紀』孝霊段に、次のような系譜がみえます。
『紀』
大日本根子彦太瓊天皇
│ │ ├──大日本根子彦国牽天皇
│ │ 細媛命〈一云 春日千乳早山香媛〉〈一云 十市県主等祖女真舌媛〉
│ │
│ ├─┬─倭迹迹日百襲姫命
│ │ ├─彦五十狭芹彦命〈亦名 吉備津彦命〉
│ │ └─倭迹迹稚屋姫命
│ 倭国香媛〈亦名 絚某姉〉
│
├─┬─彦狭嶋命
│ └─稚武彦命〈吉備臣始祖〉
絚某弟
『記』
大倭根子日子賦斗邇命
│ │ │ ├──大倭根子日子国玖琉命
│ │ │ 十市県主祖大目女細比売命
│ │ │
│ │ ├──千々速比売命
│ │ 春日千々速真若比売
│ │
│ ├─┬─夜麻登々母々曾毘売命
│ │ ├─日子刺肩別命〈高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直祖〉
│ │ ├─比古伊佐勢理毘古命〈亦名 大吉備津日子命〉〈吉備上道臣祖〉
│ │ └─倭飛羽矢若屋比売
│ 意富夜麻登玖邇阿礼比売命
│
├─┬─日子寤間命〈針間牛鹿臣祖〉
│ └─若日子建吉備津日子命〈吉備下道臣・笠臣祖〉
〈阿礼比売命弟〉蠅伊呂杼
『記』にみえる「日子刺肩別」と「日子寤間」の後裔氏族に注目します。
「日子寤間」後裔の「針間牛鹿臣」は、『姓氏録』右京皇別下に「宇自可臣」とみえ、「孝霊天皇の御子、彦狭島命の後なり」と記され、「日子寤間」は「彦狭島」であることがわかります。
「宇自可臣」は、『文徳実録』斉衡2年(855)8月癸巳条、『三代実録』貞観6年(864)8月8日壬戌条、『三代実録』元慶元年(877)12月25日辛卯条に、9世紀半ば以降相次いで、笠朝臣へ改姓したことが確認されます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、270~273頁)
「日子刺肩別」後裔の豊国国前臣・五百原君・角鹿海直に対応する3国造について、次のように「国造本紀」にみえます。
国前国造 志賀高穴穂朝 吉備臣同祖 吉備都命六世孫午佐自命定賜国造
廬原国造 志賀高穴穂朝代 以池田坂井君祖吉備武彦命児思加部彦命定賜国造
角鹿国造 志賀高穴穂朝御代 吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造
3国造は、「吉備臣同祖吉備都命」「吉備武彦命」「吉備臣祖若武彦命」といずれも吉備臣同祖氏族となっています。
五百原君(廬原国造)は、『姓氏録』右京皇別下に、廬原公とみえ、やはり笠朝臣同祖の稚武彦後裔氏族となっています。
「日子寤間」「日子刺肩別」の後裔氏族はともに吉備臣同祖氏族となりますが、「日子刺肩別」が9世紀初めまでに移行を終えるのに対し、「日子寤間」は9世紀半ば以降に移行開始し、後者に遅れが認められます。
「日子寤間」は、『紀』『姓氏録』の「彦狭島」ですが、「日子刺肩別」は『記』にだけみえます。
「日子刺肩別」「日子寤間」は音が似ており、おそらく2者は同神で「彦狭島」を指すと思われます。(「天皇本紀」では「彦狭嶋命」を「海直祖」、「稚武彦命」を「宇自可臣等祖」と『記』と逆の対応関係を記します)
針間牛鹿臣・高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直は、いずれも「彦狭島」後裔氏族でしたが、「彦狭島」の存在価値が薄れ、吉備臣同祖氏族となる選択をしますが、針間牛鹿臣は「彦狭島」後裔であることにこだわり、始祖変更に躊躇したものと思われます。(→ 播磨の牛鹿臣)
また、伊予国伊予郡の伊予神社の祭神は、孝霊天皇御子の「彦狭島」ですが、『常陸国風土記』や「国造本紀」の記述を検討すると、仲国造の祖「建借間」と同一人物とみられます。
「彦狭島」後裔氏族はさらに多数存在したと思われます。(→ 常道仲国造の祖「建借間」)