『記』欠史八代系譜に、孝霊天皇の皇子の日子刺肩別は、高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされ、異母弟の日子寤間は、針間牛鹿臣の祖とされます。
『記』
大倭根子日子賦斗邇命
│ │ │ ├──大倭根子日子国玖琉命
│ │ │ 十市県主祖大目女細比売命
│ │ │
│ │ ├──千々速比売命
│ │ 春日千々速真若比売
│ │
│ ├─┬─夜麻登々母々曾毘売命
│ │ ├─日子刺肩別命〈高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直祖〉
│ │ ├─比古伊佐勢理毘古命〈亦名 大吉備津日子命〉〈吉備上道臣祖〉
│ │ └─倭飛羽矢若屋比売
│ 意富夜麻登玖邇阿礼比売命
│
├─┬─日子寤間命〈針間牛鹿臣祖〉
│ └─若日子建吉備津日子命〈吉備下道臣・笠臣祖〉
〈阿礼比売命弟〉蠅伊呂杼
『紀』
大日本根子彦太瓊天皇
│ │ ├──大日本根子彦国牽天皇
│ │ 細媛命〈一云 春日千乳早山香媛〉〈一云 十市県主等祖女真舌媛〉
│ │
│ ├─┬─倭迹迹日百襲姫命
│ │ ├─彦五十狭芹彦命〈亦名 吉備津彦命〉
│ │ └─倭迹迹稚屋姫命
│ 倭国香媛〈亦名 絚某姉〉
│
├─┬─彦狭嶋命
│ └─稚武彦命〈吉備臣始祖〉
絚某弟
『紀』に、日子刺肩別はみえず、日子寤間は彦狭嶋と記されます。
日子刺肩別・日子寤間の後裔5氏に、次のような共通点がみられます。
〈 海洋系勢力 〉
利波臣の本拠地である越中国礪波郡は内陸部に位置しますが、『越中石黒系図』によると、当初は射水臣との一体的勢力を形成しており、富山湾に臨む小矢部川河口の曰理湊を拠点としていました。(→ 越中の利波臣)
豊国国前臣の拠点である国東半島は、竹田津・伊美・櫛来・岐部・田深・武蔵など、周防灘・伊予灘に臨む、比較的小規模な湊がいくつも存在し、『豊後国風土記』国埼郡条に、周防国佐婆津から船出した景行天皇が「彼の見ゆるは、若し国の埼か」と言ったと記されます。(国前臣は、中世の浦部衆のような複数の湊の勢力の集合体か)
五百原(いおはら)君の拠点である駿河国廬原郡は、天然の良港であった三保松原の砂嘴の延びる折戸湾を有し、『紀』天智紀2年8月条に「今聞く、大日本国の救将廬原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむ」と白村江の戦に船団を率いて参戦したことがみえます。
角鹿海直は、日本海側のほぼ中央にある天然の良港の敦賀(角鹿)を拠点とします。
針間牛鹿臣の本拠地とみられる牛鹿屯倉に比定される高砂市の塩田遺跡の一帯は、「印南の浦」とよばれたラグーンが広がり、加古川河口域の天然の良港であった「鹿子水門」と推測されます。(→ 播磨の牛鹿臣)
5氏は、湊を拠点として船を操る海洋系勢力とみられます。
〈 吉備臣 〉
「国造本紀」に、日子刺肩別後裔の豊国国前臣・五百原君・角鹿海直に対応する3国造がみえ、いずれも吉備臣同祖とされます。
国前国造 志賀高穴穂朝 吉備臣同祖 吉備都命六世孫午佐自命定賜国造
廬原国造 志賀高穴穂朝代 以池田坂井君祖吉備武彦命児思加部彦命定賜国造
角鹿国造 志賀高穴穂朝御代 吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造
五百原君(廬原公)は、『姓氏録』に、笠朝臣同祖、稚武彦の後裔と記されます。
『記』孝霊系譜は、比古伊佐勢理毘古(彦五十狭芹彦)と若日子建吉備津日子(稚武彦)を主軸とする吉備臣の系譜なので大筋では理解できますが、矛盾する点として、「国造本紀」の角鹿国造と『姓氏録』の廬原公が稚武彦後裔とされることがあげられます。
2氏に一義的に関わる吉備の祖は、日子刺肩別からみて異母弟の稚武彦ではなく、同母弟の彦五十狭芹彦のはずです。
このことは、『紀』系譜では吉備臣祖が稚武彦に一本化され、彦五十狭芹彦に後裔がなく、日子寤間にあたる稚武彦の同母兄の彦狭島はみえるものの、彦五十狭芹彦の同母兄の日子刺肩別がないことと同様の理由によるもので、吉備系譜における彦五十狭芹彦の退転が背景にあると考えます。
また、宇自可(牛鹿)臣は、『姓氏録』では彦狭島後裔とされますが、『文徳実録』斉衡2年(855)8月癸巳条、『三代実録』貞観6年(864)8月8日壬戌条、『三代実録』元慶元年(877)12月25日辛卯条に、笠朝臣への改姓がみられます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、270~273頁)
5氏は、吉備臣と密接な関係にあったことが窺われます。
〈 ヤマトタケル 〉
『姓氏録』に、廬原公について、次のように記されます。
笠朝臣と同じき祖。稚武彦命の後なり。
孫、吉備建彦命、景行天皇の御世、東方に遣被て、
毛人及び凶鬼神を伐ちて、阿倍廬原国に到り、復命日、廬原国を給ひき。
廬原公は、『紀』景行紀40年是歳条にヤマトタケルが東国征討に帯同したとある、吉備建彦を祖とします。
廬原公の本拠地とみられる、駿河国廬原郡廬原郷の郷域に、式内社の久佐奈木神社(静岡市清水区草ヶ谷)が鎮座し、ヤマトタケルの草薙剣伝承を伝えます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):静岡県:清水市>旧庵原郡地区>草ヶ谷村)
『記』『紀』草薙剣伝承の故地とされる、有度山丘陵の北麓に鎮座する草薙神社(静岡市清水区草薙)は、駿河国有度郡の式内社ですが、『姓氏録』に「阿倍廬原国」と表記されることから、廬原公の支配領域は、廬原郡だけではなく阿倍郡・有度郡を含んでいたと考えられています。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):静岡県:庵原郡)
『記』『紀』に、ヤマトタケルは、景行天皇と播磨稲日大郎姫(針間之伊那毗能大郎女)の子とされます。
『播磨国風土記』賀古郡条に、加古川河口域の南毗都麻や日岡の比礼墓にまつわる、景行天皇の印南の別嬢への妻問いの話がみえ、印南の別嬢について、『記』は針間之伊那毗能大郎女の妹とし、『紀』は播磨稲日大郎姫の別名とし、いずれにしても、ヤマトタケルの母の出身地は、牛鹿臣の本拠地と一致します。
廬原公と牛鹿臣は、ヤマトタケル伝承と密接な関係を示します。
〈 天之日矛 〉
『紀』垂仁紀元年是歳条一云に、越国の笥飯浦に来た都怒我阿羅斯等の額に角があったので「角鹿」の地名が定まり、都怒我阿羅斯等が牛と引き換えに得た玉が童女となって逃げて、難波と豊国国前郡の比売語曾社の神となったことが記されます。
『記』に、天之日矛の玉が童女となって逃げて難波の比売碁曾社の神となった話がみえ、都怒我阿羅斯等は天之日矛と混交されていることがわかります。(→ 天之日矛の伝承)
豊国国前郡の比売語曾社は、国東半島の北方約6kmにある姫島の比売語曾社(大分県東国東郡姫島村)に比定されます。
角鹿海直と国前臣は、天之日矛伝承と密接な関係を示します。
〈 いささ・いさふ 〉
加古川河口域近くにあって、山頂から明石海峡を視認できる日岡山の南麓に、播磨国賀古郡の式内社の日岡坐天伊佐々比古神社(加古川市加古川町大野)が鎮座し、天伊佐々比古を祀ります。
越前国敦賀郡の気比神社(気比神宮)(敦賀市曙町)の祭神について、『記』『紀』の応神天皇との名換えの話のなかで、「いざさわけ(伊奢沙和気・去来紗別)」と記され、「いざさひこ(伊佐々比古)」と「いざさ」が一致します。
また、廬原公の本拠地の至近、庵原川上流域に「伊佐布(いさふ)」の地名が認められます。
さらに、天之日矛の神宝を奉祭する但馬国の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)は、海洋系勢力の但馬海直との関係が認められ、神社に伝わる祝詞に「いさかへ」という神職の名称がみえます。(→ 但馬国の兵主神社7社と出石神社の相関性)
「いざさわけ」「いざさひこ」「いさふ」「いさかへ」の「いさ」は、おそらく「磯」であり、当該海洋系勢力の指標とみられ、『記』『紀』『姓氏録』の「いそべ(石辺・石部・磯部・伊勢部)」との関連が窺われます。
日子刺肩別・日子寤間の後裔5氏の属した海洋系組織は、当初は、吉備臣と深い関係をもつ人物の配下にあり、ヤマトタケル・天之日矛といった伝承を残しながら変遷を重ねたと考えます。