『紀』継体紀23年3月条に、物部伊勢連父根がみえます。
また、『紀』継体紀9年2月条・2月是月条・4月条・10年5月条・9月条にみえる「物部連」は、「名を闕せり」と記すいっぽうで、「百済本記に云はく、物部至至連といふ」と注があり、物部伊勢連父根であることがわかります。
物部伊勢連父根の登場する一連の記述は、己汶・多沙の領有がテーマとなっています。
6世紀前半、百済は、加耶南部地域侵略のため、足がかりとなる地として、伴跛(大加耶)支配下にあった己汶とそこから蟾津江(ソムジンガン)を下った河口の港津、多沙の掌握を目論み、倭国の継体王権は、百済の側に付いて、大加耶との敵対を選びました。
百済との外交首班は穂積臣押山でした。(→ 『紀』継体紀の穂積臣押山)
物部伊勢連父根は、百済の将軍・五経博士の送迎に携わり、また、己汶の件で百済から褒美を貰い、多沙では舟師(ふないくさ)五百を率いて伴跛の軍と対戦、退散したことが記されます。
穂積臣押山に近い位置にあり、おそらく配下の人物とみられ、一義的属性は、外洋航海可能な船団の長と推測されます。
また、諸要素を検討すると、穂積臣押山・物部伊勢連父根の拠点は、伊勢国鈴鹿郡・河曲郡(鈴鹿川流域)と推測されます。(→ 伊勢国鈴鹿郡・河曲郡と穂積臣押山)
敏達朝に妃を輩出した伊勢大鹿首は河曲郡を本拠地とし、穂積臣押山・物部伊勢連父根の組織の末裔と思われます。
大鹿首は、『姓氏録』未定雑姓右京に「津速魂命の3世孫、天児屋根命の後なり」と記され、藤原(中臣)氏の神系に属しますが、『姓氏録』大和国神別に「津速魂命の男、武乳遺命自り出づ」とみえる添県主は、物部連祖神ニギハヤヒ発祥の地を本拠地とします。
添御県坐神社(奈良県奈良市三碓町)の鎮座する富雄川流域は、神武東征伝承の長髄彦の拠点であり、神社は、中鳥見荘の鎮守として共同体のなかで重要な位置にありました。(→ 「孔舎衛坂」の戦い)
「津速魂」は、中臣氏と物部氏の両義的祖神と思われます。
「津速魂」は、「血速(ちはや)」「武乳速(たけちはや)」ともよばれます。
物部伊勢連父根の「父」は、「武乳速」「武乳遺」の「乳」に通じ、「津速魂」に連なる勢力ではないかと思われます。
◇ 「フツヌシ」は、藤原氏の奉祭する春日4神の1つであり、物部氏の奉祭する石上神でもある。「津速魂」は「フツヌシ」に繋がる神か。