阿賢移那斯・佐魯麻都

田中俊明氏の研究により、朝鮮半島南部の加耶の小国、安羅の6世紀前半の状況を探ります。

『紀』欽明紀2年(541)から5年(544)に、いわゆる「任那復興会議」の記述がみえます。

百済の聖明王は、新羅に滅ぼされた南加羅(金官)・㖨己呑・卓淳の3国の復建を目的として、加耶諸国の首長を招集し、また「任那日本府」に使者を送って、新羅に内応する「任那日本府」の的臣・吉備臣・河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都の放逐を求めています。

「任那日本府」は、統治機関ではなく、実態としては、在地勢力を含む安羅駐在の倭の使臣団と推測されます。

南加羅(金官)・㖨己呑・卓淳の3国は、安羅の東に位置し、531・532年に相次いで新羅に滅ぼされました。

531年、新羅の脅威にさらされた安羅は、百済に応援要請した結果、領域に百済の郡令・城主が設置され、そのことに対する不満が高まりました。

いっぽうで、新羅に投降した金官の国王一族は、新羅から破格の待遇を受けていました。

こうした状況から、当該期の安羅において、親百済派・親新羅派の相克が推測されます。

聖明王は、加耶3国は新羅への「内応」によって滅亡したと認識し、安羅に同様の事態が及ぶことを恐れて、親新羅派の倭の使臣団の放逐を求めました。

「任那復興会議」の真の目的はこの点にあります。

聖明王は、特に阿賢移那斯・佐魯麻都の2人に強い警戒感を示しています。

阿賢移那斯・佐魯麻都と河内直の先祖について、『紀』欽明紀5年2月条に次のように記されます。

百済本紀に云はく、汝が先那干陀甲背・加猟直岐甲背といふ。

亦那奇陀甲背・鷹奇奇弥といふ。語訛りて未だ詳ならず。

「那干陀甲背」「那奇陀甲背」は、『紀』顕宗紀3年是歳条の「任那の左魯那奇他甲背」と同一人物とみられます。

『紀』顕宗紀3年是歳条は、「任那」を拠点とする紀生磐宿禰という人物が高麗に通じ、「三韓に王たらむ」として、「左魯那奇他甲背」の計略によって、爾林で百済の適莫爾解を殺し、帯山に築城して津を占領して百済の兵粮を奪ったものの、百済が反撃してきて、紀生磐宿禰は逃亡し、「左魯那奇他甲背」は殺害されたことを記します。

阿賢移那斯・佐魯麻都は、兄弟など近親関係にあるとみられ、祖父「那干陀甲背」の代から「反百済」的行動を辞さない一族であったことがわかります。

(田中俊明氏は、倭人である那干陀が安羅に渡り、安羅に仕え、百済と戦って死に、その子直岐も安羅に留まって仕え、「韓腹」すなわち安羅の女性を娶って生んだのが麻都(あるいは移那斯も)ではないかと推測されます)

(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』1992年、245~255頁)

『紀』顕宗紀3年(487)是歳条の事件の年代観には異論もあり、この史料をもとに、5世紀末からとまでは確定できないものの、安羅における「反百済」的倭系安羅人・倭人の活動は、かなり以前から活発であったことが窺えます。

『紀』欽明紀2年4月条に、聖明王が同じ理由で「任那復興会議」以前に、安羅に「下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴」等を派遣したことが記されますが、これは、『紀』継体紀23年3月是月条にみえる、「将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵」遣使に対応し、派遣先は、安羅に渡海した近江毛野臣であることがわかります。(田中俊明、前掲書、252~253頁)

529年、近江毛野臣が渡海した安羅では、すでに「親新羅」「反百済」の倭系安羅人・倭人の活動が顕著になっていたことが窺われます。

(→ 磐井の乱と近江毛野臣の渡海

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