磐井の乱と近江毛野臣の渡海

『紀』継体紀に、近江毛野臣が、新羅に侵攻された南加羅・㖨己呑を復興するために、安羅に派遣されたことがみえます。

南加羅・㖨己呑・安羅は、いずれも朝鮮半島南部の海岸域にあった加耶の小国で、南加羅は金官ともよばれ、洛東江下流域西岸の金海に、㖨己呑はその西に、安羅は咸安に比定されます。

継体紀21年6月条によると、最初の渡海は、筑紫君磐井によって阻まれ頓挫しましたが、磐井鎮圧の後、継体紀23年3月是月条に実現したことがみえます。

継体紀23年・24年条に記される、毛野臣の外交の経過は次のとおりです。

百済による多沙津掌握(倭の穂積押山臣が荷担)
多沙津を奪われた大加耶は百済と決裂し、新羅と婚姻関係を結ぶ
大加耶と新羅の婚姻同盟破綻、大加耶が倭に応援を求める
毛野臣、熊川で調停外交するが不首尾、卓淳へ移る
南加羅(金官)、新羅による攻撃で壊滅
大加耶王、毛野臣の無能に怒り、
百済・新羅に挙兵を依頼し、毛野臣の拠点を包囲
毛野臣、召還され、対馬で病死

①〜⑦の話は、大加耶を主軸として展開され、それに毛野臣の動向が絡むかたちで記されます。(大加耶は、加耶の国のひとつで高霊に比定)

ところが、⑥まで読むと「何だかおかしい」と感じられます。

大加耶王は、近江毛野臣に新羅鎮圧を求めていたにもかかわらず、毛野臣の無能ぶりに怒って、新羅に頼んで、その居館を包囲させたとあります。

大加耶王がよほどの変人ならばあり得るのかもしれませんが、現実的ではありません。

毛野臣の拠点のあった卓淳が新羅に制圧されたのは事実ですが(後で表示)、大加耶王による画策ではなく、大加耶を主軸とする①〜⑤の展開につなげるため、話を「盛った」のではないかと思います。

大加耶王の応援依頼は、毛野臣渡海にとって副次的要素であり、主たる目的は別にあったと推測します。

毛野臣は、まず安羅に渡海しており、任務は、安羅に関係すると思われます。

具体的内容は、継体紀23年3月是月条の渡海実現の記述の後に続く、百済による「将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵」遣使記事からうかがうことができます。

この記述は、『紀』欽明紀2年4月条の「任那復興会議」において聖明王が言及する「麻鹵・甲背昧奴」派遣を示し、安羅の「新羅に内応する勢力」の鎮圧を目的とします。

(→ 阿賢移那斯・佐魯麻都)

そもそも、『紀』継体紀の毛野臣渡海と『紀』欽明紀の聖明王の「任那復興会議」の目的は、前者が「新羅に侵攻された南加羅・㖨己呑復興」、後者が「新羅に滅ぼされた南加羅・㖨己呑・卓淳復興」とあり、ほぼ同じです。

継体紀に卓淳がないのは、毛野臣が卓淳に滞在していたことからわかるように、辛うじて維持されていたからです。(卓淳は、安羅(咸安)の東、昌原に比定)

毛野臣渡海の目的は、聖明王による「任那復興会議」と同様、安羅の(金官・㖨己呑・卓淳ともつながる)「新羅に内応する勢力」の鎮圧にあったと思われます。

しかし、新羅の隆盛を背景に活発化した勢力を、毛野臣は抑えることが出来ず、「親百済」「親新羅」の2勢力に挟まれて身動きが取れなくなって、その間に、金官・㖨己呑・卓淳が新羅に制圧されてしまったと推測されます。

継体朝末の時系列を整理するとつぎのとおりです。

〜516年百済、栄山江流域4国を掌握(倭の穂積臣押山ら荷担)
516年〜522年百済、大加耶支配下の己汶・多沙津を掌握(倭の穂積臣押山ら荷担)
522年大加耶、百済・倭と決裂、新羅と婚姻同盟を結ぶ
523年百済の武寧王死去、聖明王即位*
527年近江毛野臣の安羅派遣が計画されるが磐井の乱により頓挫
529年近江毛野臣が安羅渡海、その後(㖨己呑の?)熊川へ
新羅、金官・㖨己呑侵攻、毛野臣、卓淳の久斯牟羅へ
大加耶、新羅との婚姻同盟破綻、倭に応援を求める
531年近江毛野臣の調停外交失敗、召還の途上、対馬で病死*
百済、安羅に進駐し、久礼山を守備
新羅、卓淳を攻撃し、久礼山を落として、卓淳を制圧
倭王権内部分裂*
532年金官国王、新羅へ投降、金官(南加羅)滅亡
(「*」が付くもの以外は、田中俊明氏『大加耶連盟の興亡と「任那」』『古代の日本と加耶』により記載)

注目点は、継体の外交に批判的な勢力の広がりです。

継体は、即位前から武寧王と個人的に親密な関係にあり(「隅田八幡宮鏡銘」)、外交方針は一貫して「百済寄り」で、522年までに、栄山江流域の4国、蟾津江流域の己汶・多沙を百済が支配下とする際に、倭の穂積臣押山らが荷担したことからもそれがうかがえます。

いっぽうで、『紀』に「穂積臣押山らが百済から賄賂を貰っている」とみえる流言は、王権内部に、継体の外交政策を批判する勢力が存在したことを示唆します。

王権内部の雄族のなかには、加耶諸国で在地勢力と結んで事業を展開する際に、大国百済に支配されず自由にやりたいと考えるものが少なからずいたと想像されます。

新羅の想定外の拡大もこれに拍車をかけ、安羅・卓淳・㖨己呑・金官など南部加耶諸国では、百済ではなく新羅の傘下に入ったほうが有利と判断する、阿賢移那斯・佐魯麻都のような勢力が活発化していました。

継体の外交に批判的な勢力は、加耶諸国から倭の雄族・倭王権中枢にまで広がり、騒乱が連動して次々と起こされます。

527年、安羅へ近江毛野臣の派遣が決まると、九州で、筑紫君磐井が阻止する行動に出ます。

531年、近江毛野臣の外交が失敗し、金官・㖨己呑・卓淳の独立が維持できないことが明らかになると、王権内部で磐井に同調する勢力によって政変が起こされます。

『紀』応神紀にみえる、武内宿禰と甘美内宿禰の対立伝承は「磐井の乱」に関わるもので、大和葛城と壱岐の勢力は、当初磐井に荷担しようとして直前に中止したものの、乱の収束後今度は、大和葛城の勢力が山城綴喜の勢力を滅ぼし、「王権の屋台骨」である当該2勢力が統轄する広域組織が崩壊したことを描いていると考えました。

(→ 武内宿禰と甘美内宿禰の対立伝承と磐井の乱)(→ 「少彦名」の年代観

『紀』継体紀25年条末尾注『百済本記』の「日本の天皇・太子皇子死去」の伝聞はこのことを示すと思われます。(→ 継体紀25年条注の『百済本記』伝聞記事

継体王権は、百済・新羅をめぐる加耶情勢に対応できず、崩壊に至り、その後、筑紫君磐井や安羅の阿賢移那斯・佐魯麻都に近い考えを持つ大和葛城の勢力と繋がる蘇我氏の主導による王権へと移行します。

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