常道仲国造の祖「建借間」

『常陸国風土記』行方郡条に、建借間(たけかしま)の話がみえます。

崇神天皇の御世に東国の荒ぶる賊の平定を命じられた建借間は、安婆の島に陣を定め、渚に旗を飾った船を並べて、7日7夜、歌舞音曲を奏で、砦に隠った賊をおびき寄せて一網打尽にし、「痛く殺す」と言った土地は、今、伊多久の郷とよばれると記されます。

「安婆」は、茨城県稲敷市阿波、阿波崎を遺称地とし、「伊多久」は、行方郡板来郷のことで、潮来を示し、霞ヶ浦南東部の和田岬、浮島のあたりから、対岸の行方郡域へ向けて攻めていった構図が窺われます。

建借間について、『常陸国風土記』は「此は那賀の国の造の初祖なり」と記します。

常陸国那賀郡の郡域は、旧郡の那珂郡と東茨城郡の北半ですが、『常陸国風土記』に、大化5年(649)に、下総国海上国造部内一里と那賀国造部内の寒田以北五里を割いて香島郡が成立し、白雉4年(653)に、茨城の地八里と那珂の地七里を割いて行方郡が成立したことがみえ、北浦の両岸の後の香島(鹿嶋)郡・行方郡も、那賀国造の支配下にありました。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):茨城県:那珂郡)

那賀国造の支配領域に鹿島神宮の鎮座地が含まれ、建借間の「借間(かしま)」が鹿島を示すことが注目されます。

「安婆」の地に鎮座する大宮大神(稲敷市伊佐部・阿波崎・下須田の入会地)に、健御雷之男命が東国征討時に行在所を当地に置き、後に鹿島に移ったという伝承が伝わります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):茨城県:稲敷郡>東村>伊佐部村>大宮大神)

大宮大神

『記』に、神八井耳の後裔氏族として、常道仲(ひたちなか)国造、伊余国造がみえます。

また、「国造本紀」に、仲国造、伊余国造、印波国造について、次のように記されます。

仲国造   志賀高穴穂朝御世 伊豫国造同祖建借馬命定賜国造

伊余国造  志賀高穴穂朝御世 印幡国造同祖 敷桁波命児速後上命定賜国造

印波国造  軽島豊明朝御代  神八井耳八世孫伊都許利命定賜国造

「国造本紀」の仲国造の祖とされる建借馬は、『常陸国風土記』の建借間を示し、彼は、神八井耳系譜に属する人物で、伊予国造と印波国造が同祖関係にあることがわかります。

伊予国伊予郡の郡家は、『伊予国風土記』逸文に「伊予の郡、郡家より東北の方に天山あり」とみえることから、名神大社である伊予神社(愛媛県伊予郡松前町神崎)のあたりに比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):愛媛県:伊予郡)

伊予神社は、伊予国造の本拠地における奉祭神とみられますが、『紀』孝霊系譜にみえる彦狭島を祭神とし、社伝に、「孝霊天皇第三皇子彦狭島命伊予皇子と称す、詔有りて伊予国に下し給ひ、伊予郡神崎庄に御座す、後に霊宮と祟め奉る。今親王宮と云ふ即ち河野家の曩祖宗廟之神也」と記されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):愛媛県:伊予郡>松前町>北神崎村>伊予神社)

彦狭島は、異母兄の日子刺肩別とともに、敦賀・国東・清水・射水・加古川など倭国の主要港津の海洋系勢力を掌握する吉備系の人物として描かれます。(→ 日子寤間・日子刺肩別の後裔氏族

仮に、彼等が同一人物ならば、伊予・鹿島・印旛が加わり、支配港津の規模は倭王権の一有力者を越えて倭国王と位置づけできるかと思います。(→ 「かしま」と「さしま」)

◇「中臣大鹿島」との関連はどうなのか。

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