播磨の牛鹿臣

『記』孝霊系譜に、「日子寤間」後裔氏族として「針間牛鹿臣」が記されます。

『姓氏録』右京皇別下に「宇自可臣」とみえ、「孝霊天皇の御子、彦狭島命の後なり」とあり、「日子寤間(ひこさめま)」は、『紀』孝霊系譜の「彦狭島(ひこさしま)」を示すことがわかります。(→ 孝霊系譜の彦狭島

牛鹿臣の本拠地とみられる、『紀』安閑紀2年5月条の「牛鹿屯倉」は、兵庫県姫路市四郷町本郷とされてきましたが、近年、「三宅」と書かれた墨書土器が出土した高砂市曽根町の塩田遺跡に比定する説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)兵庫県:姫路市)

塩田遺跡は、日笠山丘陵東麓、天川東岸の、至近に山陽道が通る交通の要衝に位置し、次のような点に注目します。

① 南東2kmに、古墳時代に石棺材として広域で使用された流紋岩質凝灰岩の産地として知られる「竜山」があり、牛鹿臣の関与が推測されます。

② 北方にそびえる高御位山を中心とする「播磨アルプス」に、鹿島神社が複数あります。

「彦狭島」の「狭島」は「鹿島」と同義であることから、鹿島神社と牛鹿臣の関係が推測されます。(→ 常道仲国造の祖「建借間」

③ 東8.3km、加古川左岸に、日岡神社(兵庫県加古川市加古川町大野)が鎮座します。

日岡神社は、『延喜式』神名帳にみえる播磨国賀古郡の「日岡坐天伊佐々比古神社」に比定され、祭神は「天伊佐佐比古命」とされます。

『記』孝霊系譜に「日子刺肩別」後裔氏族として角鹿海直がみえますが、角鹿海直が奉祭する越前国敦賀郡の気比神社の神は、『記』仲哀段に「伊奢沙和気大神」と記され、日岡神社の「天伊佐佐比古命」と気比神社の「伊奢沙和気大神」はともに「いささ」を名とし酷似することが注目されます。

「日子寤間」「日子刺肩別」は異母兄弟で音も似ており、2者の後裔氏族は同じ神を奉祭していた可能性があります。

牛鹿臣の日岡神社への関与が推測されます。

④ 日岡神社の社伝に、次のような話が伝わります。

神武東征の折、荒振神の悪行に際し、国津神伊佐佐辺命の奏により河原に石の釜を据えて食膳を炊き、祖神玉依姫・葺不合尊を祀ったところ、たちまち日光がこの山の峰に耀き祖神が現れ、日の岡・日向かう山と祝して荒振神を退治することができました。

そこで、宮を建て祖神を勧請し日向大明神として崇め、伊佐佐辺命が亡くなると、伊佐佐辺命も祀り、その甲冑・兵具を山の東に埋めたそうです。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:加古川市>旧加古郡地区>大野村>日岡神社)

いっぽう、『記』孝霊段に次のような記述がみえます。

大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国を言向け和しき。

「針間の氷河(ひかわ)」は、加古川とされます。

『記』の「針間の氷河之前に忌瓮を居ゑ」て吉備国を平定した話と、日岡神社社伝の「河原に石の釜を据えて食膳を炊き」神を祀って荒ぶる神を退治した話は、同工異曲と思われます。

社伝の「伊佐佐辺」は、祭神の「天伊佐佐比古」と思われます。

『記』では「大吉備津日子」「若建吉備津日子」となっているのは、「大吉備津日子」の亦の名が「比古伊佐勢理毘古」であり、「いさせり」は「いささ」と同義なのではないかと思います。

「いさ」は「磯」かと想像されます。

播磨牛鹿臣の背後に、孝霊系譜が描く「磯」に関わる大きなネットワークの存在が窺われます。

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