『紀』に、「五十狭茅」を名とする人物が4人みえます。
- 活目入彦五十狭茅
- 彦五十狭茅
- 五十狭茅宿禰
- 海上五十狭茅
「活目入彦五十狭茅」は、垂仁天皇であり、『記』には「伊玖米入日子伊沙知」と表記されます。
「彦五十狭茅」は、「活目入彦五十狭茅」の弟です。
「五十狭茅宿禰」は、応神天皇に敵対した忍熊王配下の将軍で「吉志の祖」とされ、『記』には「伊佐比宿禰」と表記され、「難波の吉師部が祖」とあります。
「海上五十狭茅」は、稚日女を「活田長峡国」に祭祀し、生田神社の神官の祖とされます。(→ 広田神社・生田神社・長田神社の起源)
着眼点が3つあります。
① 「活目入彦五十狭茅」と「彦五十狭茅」が兄弟である以外、4者のあいだの関係はありませんが、4者すべてに大彦との関係が認められます。
「活目入彦五十狭茅」「彦五十狭茅」は、崇神天皇と大彦の娘である御間城姫の子です。
「五十狭茅宿禰」は、『紀』に「吉師の祖」、『記』に「難波の吉師部が祖」と記されますが、『姓氏録』に難波吉士系の6氏族(摂津国皇別の吉志・三宅人、河内国皇別の日下連・大戸首・難波忌寸・難波)はすべて大彦の後裔氏族となっています。
「海上五十狭茅」は『紀』神功紀元年2月条の務古水門の4神の話に登場しますが、この4神は、『紀』神功紀仲哀9年3月条の4神に対応することがわかっており、「海上五十狭茅」の祭祀する稚日女に対応するのは「尾田の吾田節の淡郡に所居る神」となっています。
「尾田の吾田節の淡郡に所居る神」は、『延喜式』神名帳の志摩国答志郡の「粟嶋坐伊射波神社二座」もしくは「同嶋坐神乎多乃御子神社」であり、それぞれ伊雑宮、佐美長神社に比定されます。(→ 伊雑宮と佐美長神社)
生田神社と志摩国答志郡の2社のあいだに密接な関係が想定されます。
志摩国は2郡の小国で、しかも式内社は2社のみの状況下で、代々、国守は大彦後裔氏族の高橋朝臣が務めるという特殊性が認められます。
② 「活目入彦五十狭茅」「五十狭茅宿禰」は、いずれも生駒と深い関係を持ちます。
「活目入彦五十狭茅」の「活目」は、『因幡国伊福部臣古志』にみえる「伊古麻村五十里見命女河長媛」が「天孫本紀」の「活目邑五十呉桃女子師長姫」にあたることから、「往馬坐伊古麻都比古神社」「伊古麻山口神社」などの「伊古麻」、すなわち「生駒」を示します。(佐伯有清「『因幡国伊福部臣古志』の研究」(『史学論集対外関係と政治文化』第2、1974年))
「五十狭茅宿禰」は、応神天皇に敵対した忍熊王配下の将軍ですが、忍熊王の拠点は、「京北班田図」(西大寺所蔵)にみえる「忍熊里」すなわち、生駒山地東麓、現在の奈良市押熊町とされます。(塚口義信「神功皇后の出自系譜に関する一考察」(『神功皇后伝説の研究』1980年))
いっぽう、『紀』神武即位前紀にみえる「長髄彦」も『伊勢国風土記』逸文に「胆駒長髄」と記されるように、生駒を拠点とします。
『紀』神武即位前紀戊午年12月条に次のようにみえます。
長髄は是邑の本の号なり。
因りて亦以て人の名とす。
皇軍の鵄の瑞を得るに及りて、時人仍りて鵄邑と号く。
今鳥見と云ふは、是訛れるなり。
長髄彦の「長髄」は邑の名に因むもので、その後、邑は、神武の鵄の瑞祥により「鵄邑」と名付けられ、今は「鳥見」とよばれると記されます。
「鳥見」は、興福寺大乗院領荘園の上鳥見庄・中津鳥見庄・下鳥見庄の所在地から、奈良県生駒市鹿畑町・上町・奈良市二名町・三碓町、石木町など、富雄川流域に比定されます。(「砂茶屋」の「砂」は「長髄」の「すね」の名残か)
「長髄彦」「活目入彦五十狭茅」「五十狭茅宿禰」の3者はいずれも生駒山地の勢力です。
『紀』の時系列によると、当該勢力は、神武朝に王権中枢勢力となり、垂仁朝に大王を輩出し、仲哀朝に他勢力により排斥されるという経過をたどっています。
神武〜仲哀の「建国神話」は、生駒の勢力の栄枯盛衰を描いているといえます。
③ ①でみた、伊雑宮について、『倭姫命世記』に「伊佐波登美」による奉祭を起源とする記述がみえ、「伊佐波(いさは)」は「粟嶋坐伊射波神社」の「伊射波(いさは)」に通じ、また『延喜式』伊勢太神宮式に「伊雑」は「いさふ」と訓読されます。
伊雑宮は、俗に「磯部宮」と称され、「いさは」「いさふ」とは「磯」「磯部」に因むものと思われ、一連の「五十狭茅(いさち)」の属性も「磯」あるいは「磯部」かと推測されます。