常陸国久慈郡の稲村神社

『延喜式』神名帳の常陸国久慈郡に載る稲村神社は、茨城県常陸太田市天神林町、常陸太田市街から間坂へ至る旧道から北へ突き出た崖上の森の中に鎮座します。

周辺は、『和名抄』常陸国久慈郡佐竹郷に比定され、中世の佐竹氏発祥の地でもあり、至近に佐竹氏の菩提寺である佐竹寺があります。

また、北北東1.7kmには、徳川光圀が晩年の10年を過ごした西山荘があり、『新編常陸国誌』によると、光圀は、元禄6年(1693)に、天神山・間坂・小芝原・権現山・井之手・冨士山・巌戸山の七代天神と称する塚を1カ所に集め、稲村神社の社殿を造営して合祀しました。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):茨城県:常陸太田市>天神林村>稲村神社)

ところで、滋賀県彦根市稲里町、荒神山の南に、中世平流荘13ヵ村の産土神と伝わる稲村神社が鎮座し、その社伝によると、天智6年(667)に常陸国久慈郡の稲村神社の分霊を奉祀したのが始まりとされます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:彦根市>旧愛知郡・神崎郡地区>下平流村>稲村神社)

彦根の平流(へる)と常陸太田の天神林に何らかのつながりがあったことがわかります。

彦根の平流に関わり、滋賀県野洲市の西河原森ノ内遺跡から出土した木簡が注目されます。

・「椋□(直ヵ)伝之我持往稲者馬不得故我者反来之故是如卜ア」

・「自舟人率而可行也 其稲在処者衣知評平留五十戸旦波博士家」

「椋□(直ヵ)」(内蔵直)が森ノ内遺跡に住む卜部に対し、衣知評平留五十戸の旦波博士の家にある稲を舟で運んで来てくれ、と記され、平流(衣知評平留五十戸)と西河原の交通が描かれています。

西河原森ノ内遺跡からは「石辺君玉足」の名を記した木簡が出土し、また、至近の西河原光相寺遺跡からも「石辺」「石部君」と墨書した土器が7点出土していることから、西河原は、石辺君と深く関わる土地とみられます。

(大橋信弥「近江における律令国家成立期の一様相 ー野洲市西河原遺跡群の性格をめぐってー」(『古代の地域支配と渡来人』2019年))

常陸太田市天神林の稲村神社の東2.4kmに「磯部」の集落があり、天神林から磯部へ古道とみられる道が通じています。

また、茨城県桜川市磯部にも、磯部稲村神社があり、「稲村神」と「磯部」の関係が認められます。

常陸太田の稲村神が彦根に勧請された背景に「磯部(石辺)」の存在が推測されます。

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