穴栗神社は、奈良県奈良市横井の集落の北方、小字穴栗に鎮座します。

『延喜式』神名帳の大和国添上郡に「穴吹神社」とみえ、金剛寺本にはアナフキの訓注があり、享保板本は社名を「穴次」としますが、寛弘9年(1012)3月11日の大和国今木庄坪付案文進状(東大寺文書)に「穴久理」、長承2年(1133 )の「春日大明神垂跡小社記」には「穴栗」とあります。
鎮座地は、『紀』景行紀55年2月条にみえる、彦狭嶋王の終焉の地、「春日の穴咋(あなくひ)邑」であり、小字穴栗はアナクイの転訛とみられ、「穴吹」「穴次」は誤写と考えられています。(→ 豊城系譜の彦狭島)
平安末期、春日若宮社神主中臣祐房が春日社中院に当社を勧請し(「春日大明神垂跡小社記」「興福寺濫觴記」)、その祭神は「春日平岡貝吹神」とされます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:奈良市>都南地区>古市村>穴吹神社)
また、前掲の大和国今木庄坪付案文進状によると、今木庄の添上郡東7条3里7坪から36坪の四至は、北限が「菟上社」、南限が「穴久理社南畔」とあります。
「穴久理社」の北、約650m(1里)に「菟上社」があったことがわかります。
「菟上社」は現存しませんが、「今木社」ともよばれ、神主は大中臣氏であったことがわかっています。(寛弘9年(1012)「大僧正雅慶書状」(東大寺文書)、同年「大和国司解案」(お茶の水図書館蔵文書))
『延喜式』神名帳の大和国添上郡に「宇奈太理坐高御魂神社」がみえ、『紀』持統6年(692)12月24日条には、「大夫等を遣して、新羅の調を、五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉る」と、「菟名足社」とあります。
「宇奈太理坐高御魂神社」(「菟名足社」)は、奈良市法華寺町、平城宮跡の東に鎮座する「楊梅天神」とも称する神社に比定されていますが、穴栗社の至近にあった「菟上社」を示す可能性が高いと考えられています。
『大和志料』所収「長承注進状」「中臣祐重記」に、「井栗明神、又実名宇奈太理坐高御魂神」「穴栗神社井栗神社若宮社神主中臣祐房自横井村奉渡于中院」とあり、穴栗社と同じ時期に春日大社内に勧請された後、衰微したと推測されます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:奈良市>佐保・佐紀地区>法華寺村>宇奈太理坐高御魂神社、奈良市>都南地区>古市村>春日庄)
大和国添上郡の穴栗社・菟上社の2社について、次のような点に着目します。
① 穴栗社・菟上社の2社は至近に位置し、ともに春日大社中院に勧請されるなど共通の属性が窺われます。
② 中臣4神のうち主たる2神は、『延喜式』の「春日祭祝詞」によれば、「鹿嶋坐健御賀豆智命」「香取坐伊波比主命」とされ、常陸国の鹿島神宮、下総国の香取神宮を示します。
常陸国鹿島郡は、『常陸国風土記』によると「下総国海上国造部内」の1里と「那賀国造部内」の5里を割いて建郡したことが記され、下総国香取郡も「下総国海上国造部内」から建郡されており、鹿島神宮・香取神宮の成立に、「下総国海上国造」と「那賀国造」が関与しています。
『記』に、「下総国海上国造」は「下菟上国造」とみえ、「菟上社」の神名に通じます。
③ 「下総国海上国造」は、律令制下では「海上国造他田日奉直」を称し、『紀』敏達紀にみえる「日奉部」の一族とみられ、日神祭祀への関与が窺われます。
穴栗社の鎮座地、「春日穴咋邑」で死去した「彦狭嶋王」は豊城入彦の孫ですが、豊城入彦の妹、豊鍬入姫は、『記』『紀』で伊勢神宮内宮に遷座する以前の天照大神の祭祀者とされます。
いっぽう、伊勢神宮内宮の神官家は、『皇太神宮儀式帳』によると、中臣氏の祖「大鹿島」後裔の荒木田氏ですが、「大鹿島」は、『紀』垂仁紀25年2月条に「中臣連遠祖大鹿嶋」とみえ、常陸国の鹿島に関わる神名と考えられています。
④ 「彦狭嶋」は、孝霊系譜にもみえ、後裔氏族の1つに、常陸の「那賀国造」があり、「狭嶋」は「鹿島」の転訛とされます。(→ 常道仲国造の祖「建借間」)
大和国添上郡の穴栗社・菟上社の背景に、鹿島神・香取神・伊勢内宮神と深く関わる、豊城系譜・孝霊系譜の2人の「彦狭島」と中臣連祖「大鹿島」のネットワークが推測されます。
◇ 豊城系譜・孝霊系譜の2人の「彦狭島」と中臣連祖「大鹿島」は、属性を共有する。(→ 豊城系譜・孝霊系譜の「彦狭島」と中臣連祖「大鹿島」)