伊勢神宮内宮の起源について、『紀』は、垂仁段に倭姫の話を記しますが、『記』は、天孫降臨段に思金神ら6神の話を載せます。
天照大神は、皇孫ニニギに葦原中国へ降下させる時に、鏡を与え、お供の神を付けて、次のように言います。
此の鏡は、専ら我が御魂と為て、
吾が前を拝むが如く、いつき奉れ、
思金神は、前の事を取り持ちて政を為よ。
続いて、次のような記述がみえます。
此の二柱の神は、さくくしろ伊須受能宮を拝み祭りき。
次に、登由宇気神、此は、外宮の度相に坐す神ぞ。
次に、天石戸別神、亦の名は、櫛石窓神と謂ひ、亦の名は、豊石窓神と謂ふ。
此の神は、御門の神ぞ。
次に、手力男神は、佐那々県に坐す。
「鏡を、我が御魂として祭祀せよ」という天照大神のミッションは、「思金神」を中心に、「此の二柱の神」「登由宇気神」「天石戸別神」「手力男神」という、計6神により遂行されます。
「此の二柱の神は、さくくしろ伊須受能宮を拝み祭りき」とあり、「さくくしろ伊須受能宮」は、伊勢神宮内宮なので、「此の二柱の神」は伊勢神宮内宮の御神体である鏡の祭祀を担当したことがわかりますが、神の名が示されていないことが問題となっています。
西郷信綱氏は、『紀』神代紀第9段一書第1の話との関係を指摘されます。
一書第1では、皇孫ニニギの降下の時、サルタヒコが現れ、次のように告げます。
天照大神の子、今降行すべしと聞く。
故に、迎へ奉りて相待つ。
天神の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触峯に到りますべし。
吾は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到るべし。
我を発顕しつるは、汝なり。
故、汝、我を送りて致りませ。
サルタヒコが、ニニギのお供のアメノウズメを誘って、「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」つまり伊勢神宮内宮の地へ向かうことが書かれており、『記』の「二柱の神」の話と符合することから、「二柱の神」とはサルタヒコとアメノウズメとされます。
(西郷信綱『古事記注釈』第4巻、筑摩書房、2005年、38-42頁)
また、「手力男神は、佐那々県に坐す」とありますが、「佐那々県」は、『延喜式』神名帳の伊勢国多気郡の「佐那神社」の地を示します。
佐那神社は、櫛田川支流佐奈川の流域、三重県多気郡多気町仁田に鎮座し、『和名抄』伊勢国多気郡相可郷に属します。(→ 伊勢国多気郡相可郷)
『記』の伊勢神宮の話は、本来的には、天石屋に隠った天照大神を、思金神らが誘い出すことに成功した後、天照大神を映した鏡を、伊勢の五十鈴川上に祭祀したという内容でしたが、天孫降臨段に組み込まれたため、文脈が乱れていると推測されています。
伊勢神宮内宮の起源について、『紀』の倭姫の話と『記』の天石屋の話に続く話の2種類の伝承があることがわかります。
◇ 2つの伊勢神宮内宮の起源伝承に、「磯部」の関与が推測される。