大和国宇陀郡と大伴連・倭直

大和国宇陀郡は、奈良盆地東南の山間地域ですが、『記』『紀』建国神話の舞台とされ、地域的特異性が窺われます。

神武天皇は、東征の最終段階で宇陀から大和盆地に入り、戦いに連勝して畝傍橿原に至り即位しますが、起点となったのは「穿(うかち)」という場所で、『記』『紀』に次のようにみえます。

其地より蹈み穿ちて、宇陀に越え幸しき。

故、宇陀の穿と曰ふ。

故爾くして、宇陀に兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人有り。

『記』神武記

遂に菟田下県に達る。

因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑

〈穿邑、此をば于介知能務羅と云ふ。〉と曰ふ。

『紀』神武即位前紀戊午年6月条

天皇、兄猾及び弟猾を徴さしむ。〈猾、此をば宇介志と云ふ。〉

此の両の人は、菟田県の魁帥なり。

『紀』神武即位前紀戊午年8月条

「穿(うかち)」は、宇陀川水系の宇賀志川流域、奈良県宇陀市菟田野宇賀志に比定され、「兄猾(えうかし)」「弟猾(おとうかし)」は、当該地の在地勢力と推測されます。

「兄猾」は神武に敵対して討伐され、「弟猾」は神武の配下となります。

また、『記』『紀』ともに、「兄猾」「弟猾」の登場に合わせて、大伴連祖道臣と大久米の活躍が始まり、『紀』では、「弟猾」と倭直祖椎根津彦が「天香山の土」をめぐり一緒に行動する様子が描かれます。

宇陀の勢力と大伴連・倭直の関係が窺われます。

また、『紀』神武即位前紀戊午年11月条に、倭直祖椎根津彦の作戦により、宇陀から大和盆地に入る道を防ぐ兄磯城の軍を突破する話がみえます。

忍坂道から「女軍」を送って敵を引きつけている間に、「男軍」が「墨坂」に敵が置いた焃炭に菟田川の水をかけて消して突破して、「男軍」「女軍」で敵を挟み撃ちして一網打尽にするという作戦です。

「墨坂」に関係しては、大彦と神八井耳に「子を拾って育てる」伝承がみられます。(→ 大彦の「墨坂」伝承

その他に、『紀』に「菟田の血原」「菟田の高倉山」「国見丘」「菟田川の朝原」「伊那瑳山」、『記』に「宇陀の血原」「伊那佐山」などの宇陀の地名がみえます。

また、『紀』に「猛田」の地を「弟猾」に賜ったという記述がみえます。

皇師(みいくさ)の立誥びし処、是を猛田と謂ふ。

『紀』神武即位前紀己未年2月条

弟猾に猛田邑を給ふ。

因りて猛田県主とす。是菟田主水部が遠祖なり。

『紀』神武紀2年2月条

「猛田」の比定について、『万葉集』巻4・巻8にみえる「竹田庄」「竹田の原」との関係が問題となります。

「竹田庄」「竹田の原」は大伴氏の所領であり、橿原市東竹田町と宇陀市榛原上井足小字高田の2説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge)奈良県:橿原市>多・耳成地区>東竹田村)

『日本書紀通証』(谷川士清、1748年)は前者に比定しますが、弟猾が宇陀の勢力なので後者とする見解も有力です。

注目したいのは、宇陀・竹田・畝傍の共通属性です。

畝傍は「大伴連」「神八井耳」「神渟名川耳」、竹田は「大伴連」「神八井耳」「武渟川別」、宇陀は「大伴連」「神八井耳」「倭直」の属性が認められます。

「大伴連」「神八井耳」が共通し、「神渟名川耳」「武渟川別」「倭直」の部分が異なります。

「神渟名川耳」は綏靖天皇、「武渟川別」は大彦の子であり、「倭直」とは何の関係もないのですが、「神渟名川耳」「武渟川別」は、越後国頸城郡の地名「ぬなかわ」を共有し、当該地の在地勢力は倭直なのです。

(→ 築坂・久米・竹田と大伴連)(→ 「渟名川」と倭直・阿曇連

◇ 神武(「神日本磐余彦火火出見天皇」)の東征伝承は、ホデミ(「彦火火出見」)を核として大王の「トモ」が形成される、5世紀後半の様相を描いたものと思われる。

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