「藺生」という地名について

「藺生(いう)」という地名が、奈良県奈良市藺生町、滋賀県高島市今津町藺生の2カ所にみえます。

奈良県の「藺生」は、都祁盆地の西部に位置し、初瀬川の発源地として知られます。

往古、藺生の西並松にあった「曾我尾池」は、初瀬川の発源地であり、初瀬48郷の溜池でしたが、天正(1573~92)頃、池は廃され(都祁郷図)、現在は水田となっています。

享保14年(1729)の「北吉品記」(『山辺郡誌』所収)に次のように記されます。

藺生昔ハ池地ニテ、長谷川四十八井手溜池ニテ、六月朔日ニ四十八石地子并ニ四十八荷ノ酒肴持来リ泊瀬ノ祭アリシ由ニテ、泊瀬社ト云ヘル祠ヲ堤ニ建テリ、池底三丁余ニ五六町程ノ沢ナリ、次第ニ田トナル、堤長三町余今ハ並松ノ堤ト云ナリ、池ノ堤ニ女郎塚馬塚トテ二ツノ塚有、云伝ハ昔此堤ヲ築クニ、宇陀郡東郷ノ娘馬上嫁入ニ通ルヲ娘馬共ニ乍生堤ニ築籠ト云、仍テ東郷カ池ト云、今嫁入不通脇道ヲ通ナリト。

初瀬48郷の人々によって「曾我尾池」のほとりで、毎年6月1日に祭が行われ、そのことに因み「泊瀬社」が建てられたことがみえます。

また、藺生の南東方に鎮座する葛神社の祭神は出雲建雄神であり、『延喜式』神名帳の大和国山辺郡の「出雲建雄神社」の論社となっています。(出雲建雄神社は石上神宮の南門脇にもあります)

「出雲建雄」は、『紀』崇神紀60年7月条に討伐されたことがみえる「出雲振根」を示し、当地と王権の出雲討伐の関係が推測されます。(→ 『記』『紀』の出雲討伐伝承

『山辺郡誌』には、毎年6月1日に「曾我尾池」のほとりで行われた「泊瀬のたけを祭」が後に葛神社の夏祭となったと記されます。

また、『紀』仁徳紀62年是歳条に都介氷室についての記述がみえ、当該の氷室は天理市福住町の氷室神社背後の山中に比定されますが、藺生の葛神社にも氷室の旧跡が伝わります。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:山辺郡>都祁村>藺生村、藺生村>葛神社、天理市>福住地区>福住村>都介氷室跡)

都祁の「藺生」は、初瀬川の発源地であり、氷室が所在し、出雲討伐との関係の痕跡を伝えるなど、「山守」の要衝としての性格が窺われます。

いっぽう、滋賀県の「藺生」は、近江国高島郡の北部、角山君の拠点域の石田川が山峡から平地に出たところに位置します。

「藺生」の集落の東北方3.3kmに、式内社の日置神社(高島市今津町酒波)が鎮座し、「日置」は、『姓氏録』の大山守王後裔の日置朝臣に繋がります。

「角山君」「大山守王」の属性は、都祁の「藺生」と同様、「山守」を示しています。

「藺生」の「いう」は、『紀』『紀』垂仁段のホムツワケの周辺にみえる「ゆう」「いう」と同じ起源を持つものと推測され、「吉備津彦」の出雲討伐によって生じた混乱の「火消し」の施策が行われた、一連の土地の1つではなかったかと思われます。(→ 天湯河板挙の「湯」

目次