少子部蜾蠃の三輪山の神

『紀』雄略紀7年7月条に「三諸岳の神」の話がみえます。

天皇、少子部蜾蠃に詔して曰はく、

「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。

〈或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。

 或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。〉

汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。

蜾蠃、答へて曰さく、「試みに往りて捉へむ」とまうす。

乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。

天皇、斎戒したまはず。

其の雷虺虺きて、目精赫赫く。

天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。

岳に放たしめたまふ。

仍りて改めて名を賜ひて雷とす。

雄略天皇が少子部蜾蠃(ちひさこべのすがる)に命令して、「三諸岳の神」を捕らえさせ、山に放って「雷」と名付けたことが記されます。

「三諸岳の神」について、「此の山の神をば大物主神と為ふといふ」「菟田の墨坂神なりといふ」という2つの注がみえ、『紀』編者が、「大物主神」「菟田墨坂神」と関わりのある神と認識していたことがわかります。

「大物主神」は、『記』『紀』崇神段に記述がみえる三輪山の神であり、「三諸岳」を三輪山と考えていたことを示します。

「菟田墨坂神」は、現在、奈良県宇陀市榛原萩原の宇陀川南岸に鎮座する墨坂神社を示しますが、「墨坂」は元来、奈良県桜井市吉隠から萩原に通じる伊勢街道の西峠付近とされ、口碑によると、墨坂神社も元は、西峠の天の森に所在したといわれます。(『日本歴史地名大系(JapanKnowledge)』奈良県:宇陀郡>榛原町>萩原村>墨坂神社)

『記』『紀』の崇神段には、墨坂神の祭祀の記述もみられ、同段の大物主神祭祀に付随する伝承であった可能性が高く、菟田墨坂神と大物主神との関係が窺われます。

いっぽう、少子部蜾蠃が捕らえた三諸岳の神と菟田墨坂神の関係を考えるうえで、「子を拾い育てる」という共通のモチーフが注目されます。

『姓氏録』河内国皇別の難波忌寸の項に、次のような記述がみえます。

阿倍氏の遠祖、大彦命、磯城瑞籬宮御宇天皇の御世に、

蝦夷を治めに遣されし時に、兎田の墨坂に至りて、

忽ちに嬰児の啼泣を聞きて、即ち認覔ぐに、棄てたる嬰児を獲き。

大彦命、見て大く歓びて、即ち乳母を訪求むるに、

兎田弟原媛といふを得き。

便ち嬰児に付けて、能く養して長安さば、功に酧いむと曰へり。

是に人と成して奉送りければ、

大彦命、子と為て愛育ひて、号けて得彦宿禰と曰へり。

異説も並存り。

難波忌寸の祖である大彦が「兎田の墨坂」で拾った嬰児を兎田弟原媛に育てさせ、自分の子として得彦宿禰と名付けたことが記されます。

また、『紀』雄略紀6年3月条に、次のような少子部の起源伝承がみえます。

天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す。

爰に蜾蠃に命せて、国内の蚕を聚めしめたまふ。

是に、蜾蠃、誤りて嬰児を聚めて、天皇に奉献る。

天皇、大きに咲ぎたまひて、嬰児を蜾蠃に賜ひて曰はく、

「汝、自ら養へ」とのたまふ。

蜾蠃、即ち嬰児を宮墻の下に養す。

仍りて姓を賜ひて、少子部連とす。

『紀』雄略紀6年3月条

雄略が少子部蜾蠃に、蚕を集めるよう命令したところ、蜾蠃が誤って嬰児を集めて献上したため、雄略は、蜾蠃に嬰児の養育を命じ、そのことから、少子部という姓を賜ることになったと記されます。

佐伯有清氏は、少子部の起源伝承と難波忌寸の起源伝承は、「嬰児を拾って自分の子として育てた」というモチーフが共通し、大彦が「兎田の墨坂」で子を拾っていることと、少子部蜾蠃が捕らえた神を「菟田墨坂神」とすることはつながっており、少子部と難波忌寸の2氏に、子部の伴造氏族という共通性があったのではないかといわれます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』1982年、420~421頁)

子部とは何を意味するのか。

「菟田墨坂」「子を拾い育てる」ということから、山尾幸久氏による、雄略朝の大王の臣下集団形成についての次のような論述が想起されます。

以上のように私は、稲荷山古墳出土の鉄剣を膳臣氏の世職が成立したこととの関連でみようとするのであるが、そこで、古事記の天孫降臨神話、神武の忍坂での話、宇陀の久米歌、ヤマトタケルの西征東征に従った者の記事、景行紀の大伴連の遠祖武日に靫部を、膳臣の遠祖六鴈に膳大伴部を賜った記事、高橋氏文の膳大伴部の起源伝承等々から考えると、久米が大刀を佩き靫を負い、宮門を護衛し巡幸に従駕し、服さざる者と戦い、それと共に君主への供膳に奉仕していたことは、すでに多数の研究があるように間違いがないのであって、そのうち最も早くからこの職をもって奉仕しその後に設けられた西日本のいくつかの久米集団を率いたのではないかと想定される一族は、元来は宇陀の山民として狩りの獲物や山菜をも貢上していたが、久米は雄略以後王権の軍事力荷担集団としての実質を失うとされている。今後の研究課題が多いが、伊予国久米郡の久米集団の首領が五世紀末に山部連となったように(後述)、もと宇陀の久米集団の首領であったのちの膳氏が、雄略の時代に伴造的トモとなって調理供膳のオホトモ集団を統括した可能性があると思う。(山尾幸久『日本古代王権形成史論』1983年、377頁)

山尾幸久氏は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘を検討されるなかで、雄略朝に大王直属の臣下集団が形成されたことを示され、神武東征伝承にみえる菟田の久米集団をその前身と推測されます。

神武東征伝承の記述がいつ頃のことを示すのかは置いておくとして、(雄略朝に台頭する)大伴連の祖に率いられた、神武直属の菟田の久米集団と、「菟田墨坂」「子を拾い育てる」モチーフは、確実につながっています。

「子を拾い育てる」とは、大王直属の臣下となる人間を集めることを寓話的に表現したものであり、三輪山の神と菟田墨坂神の神威が重要な役割を担っていたとみられます。

少子部蜾蠃の伝承は、彼が大王直属集団の形成に尽力したことを描き、難波忌寸の伝承は、『紀』雄略紀14年4月条の大草香部吉士の賜姓記事に対応するもので、難波忌寸(難波吉士)が大王の臣下集団に組み込まれたことを示すものと考えます。

少子部蜾蠃の神と大物主神はどのような関係にあるのか。

『新抄格勅符抄』によると、墨坂神は、天応元年(781)に信濃国に神戸1戸を充てられています。(→ 信濃国高井郡の墨坂神社

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