秦酒公と少子部蜾蠃

『紀』雄略紀15年条に、秦酒公の話がみえます。

秦の民を臣連等に分散ちて、各欲の随に駈使らしむ。秦造に委にしめず。

是に由りて、秦造酒、甚に以て憂として、天皇に仕へまつる。

天皇、愛び寵みたまふ。詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。

公、仍りて百八十種勝を領率ゐて、庸調の絹縑を奉献りて、朝廷に充積む。

因りて姓を賜ひて禹豆麻佐と曰ふ。

雄略が各地に分散していた秦の民を集めて秦酒公に与えたので、秦酒公は御礼に、秦の民に織らせた絹布を献上したと記されます。

『姓氏録』山城国諸蕃の秦忌寸の項にも、秦の民を集めたことが記されます。

天皇、使、小子部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めしめたまひ、

秦の民九十二部、一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。

秦の民を集めた小子部雷は、少子部蜾蠃のことで、少子部は神八井耳後裔の多氏同祖氏族です。

「雷」は『紀』雄略紀7年7月条にみえる、蜾蠃が捕らえた三輪山の雷神を示します。

『紀』雄略紀6年3月条の蜾蠃が子を拾い育てる話を合わせると、三輪山の神の神威のもと、蜾蠃が人を集めて、大王直属の臣下集団が形成されたことが寓話的に描かれていると推測されます。(→ 雄略朝の三輪山の神

秦酒公の話も、少子部蜾蠃が関与する人集めの話なので、「各地に分散していた秦の民を集める」とは、「秦の民」が組織化され、大王直属の臣下集団となったことを描いていると思われます。

また、『紀』の少子部蜾蠃が子を拾い育てる話において、蜾蠃は蚕と間違えて子を集めるのですが、秦酒公の話も絹を献上しており、「蚕」が共通要素となっています。

「蚕」と秦氏の関係について、『紀』皇極紀3年7月条の「常世虫」の話が注目されます。

東国の不尽河の辺の人大生部多、虫祭ることを村里の人に勧めて曰はく、

「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」といふ。

巫覡等、遂に詐きて、神語に託せて曰はく、

「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、

老いたる人は還りて少ゆ」といふ。

是に由りて、加勧めて、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ね、

菜・六畜を路の側に陳ねて、呼はしめて曰はく、

「新しき富入来れり」といふ。

都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、

歌ひ儛ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。

都て益す所無くして、損り費ゆること極て甚し。

是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを悪みて、大生部多を打つ。

其の巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。

時の人、便ち歌を作りて曰はく、

 太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも

此の虫は、常に橘の樹に生る。

或いは曼椒に生る。其の長さ四寸余、其の大きさ頭指許。

其の色緑にして有黒点なり。

其の㒵全ら養蚕に似れり。

蚕に似た「常世虫」を祭り人心を惑わしていた大生部多を、秦河勝が罰したことが記され、「大生部多」の名が多氏を想起させる点に注目します。

『紀』雄略紀の少子部蜾蠃と秦酒公と同様、多氏と秦氏の組合せに「蚕」が関与していることになります。

蚕に似た虫を「常世虫」として祀ったことが罰されており、つまり、本物の蚕は「常世虫」であったのではないかと思われます。

「常世」は神仙思想に特有の観念であり、『紀』雄略紀の少子部蜾蠃と秦酒公の「蚕」は、大王直属の臣下集団形成の背景に神仙思想が存在したことを示していると思われます。

『紀』雄略紀に、丹後の「浦嶋子」伝承がみえることも傍証となります。(→ 丹後の「浦嶋子」)

次に、多氏同祖氏族と秦氏の関係に注目します。

『紀』仁徳紀11年10月条に、河内国茨田郡の茨田堤の築造が難航し、武蔵の人強頸と河内の人茨田連衫子を人柱にするよう神のお告げがあり、強頸は沈められましたが、茨田連衫子は機転を利かせて免れ、工事が完成したことがみえます。

茨田連は、茨田郡の有力勢力であり、『姓氏録』河内国皇別の茨田宿禰(旧姓連)の項に、多朝臣同祖の彦八井耳後裔で、仁徳朝に茨田堤を築造したことが記されます。

いっぽう、大阪府寝屋川市秦、太秦に比定される河内国茨田郡幡多郷は、秦氏の有力拠点であり、『記』仁徳記には、「又、秦人を役てて、茨田堤と茨田三宅とを作り」と記されます。

茨田堤築造に、多氏同祖氏族の茨田連と秦氏が共同して関与しており、『紀』雄略紀の少子部蜾蠃と秦酒公の話を見ても、多氏と秦氏に密接な関係があることが窺われます。

また、冒頭の秦酒公の話には前日談があり、『姓氏録』左京諸蕃の太秦公宿禰と山城国諸蕃の秦忌寸の項によると、秦氏の祖、弓月君(弓月王)は応神朝に渡来したとあり、『紀』応神紀14年是歳条と16年8月条の葛城襲津彦・平群木菟宿禰・的戸田宿禰が関与して弓月君が来朝した記事に対応します。(『紀』は、弓月君を秦氏の祖とする記述はなし)

しかし、「前日談」は、『記』『紀』にたびたびみえる、「本来の状態に戻す」図式の、虚構の「本来」であり、事実とはいえないと思われます。

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