和珥春日の后妃

5世紀後半から6世紀前半にかけて、大王と春日和珥の后妃の子が後継の大王の后となることを繰り返す特殊な系譜がみられます。

起点となるのは、雄略と春日和珥臣深目女童女君の一夜婚です。

仁賢は、一夜婚によって生まれた春日大娘皇女と和珥臣日爪女糠君娘の2人の和珥春日の女性を后妃とし、その娘たちが継体・安閑・宣化の后となって、さらに宣化の后の子が欽明の后となります。(岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』1966年)、山尾幸久『日本古代王権形成史論』1983年、74~75頁、380頁)

雄略                   継体
├─────────────春日大娘皇女  │
春日和珥臣深目女童女君    ├───┬─手白香皇女
              仁賢   └─橘皇女
               │      ├──石姫
               │     宣化  │
               │         欽明
               ├─────春日山田皇女
               │      │
               │     安閑
               │
              和珥臣日爪女糠君娘

春日和珥の后妃についての着眼点は次のとおりです。

① 春日和珥の后妃の起点・拡大・終焉から、一義的に関与したのは物部連と思われます。

起点となった雄略と和珥臣深目女童女君の一夜婚について、『紀』雄略紀元年3月是月条に記述がみえます。

当初、雄略は、一夜婚によって生まれた女の子(春日大娘皇女)を自分の子と認めませんでしたが、「大王に似ている」「一夜に幾度お召しになられたのか(答えは7回)」「子を成しやすい女は肌着を着けていても懐妊する」などと、物部目大連が迫って大王が認めることになります。

春日和珥の后妃の血統が本格的に始動するのは、雄略の3代後の仁賢からであり、仁賢は、一夜婚で生まれた春日大娘皇女を后とし、それとは別に、和珥臣日爪女糠君娘を妃として、継体・安閑・宣化の后を輩出し、スプレッダーのような存在となっています。

仁賢の王宮は、『紀』に「石上広高宮」とみえ、物部連の拠点、石上神宮の地であり、物部連と密接な関係にあったことが窺われます。

いっぽう、当該血統は敏達朝に終焉を迎えます。

敏達后は、当初、息長真手王女広姫がなりますが、広姫が亡くなると、豊御食炊屋姫が立后され、いずれも、和珥春日の特殊な血統を継ぐ女性ではありません。(妃として春日臣仲君女老女子夫人がみえますが、当該血統との関係は不明です)

豊御食炊屋姫は、欽明と蘇我稲目の娘堅塩媛の子であり、背後にあったのは蘇我氏で、立后に関係して「日祀部・私部」が設置されていることから、后妃制度の作新(王権神の変更か)が図られたものと思われます。(立后の11年後、587年に物部氏滅亡)(→ 大和国城上郡の他田坐天照御魂神社)

② 5世紀後半から6世紀前半、当該血統から除外された大王が2人います。

顕宗・武烈の2王は、「春日」を冠した名の女性を后としますが、当該血統に載るものではありません。

また、2王の陵墓は「傍丘磐杯丘陵」と同一名称であり、平群臣討伐に関して、『記』は顕宗、『紀』は武烈が行ったと記し、錯綜がみられます。(→ 顕宗・武烈の后妃と陵墓

③ 継体即位に際し、当該血統を継ぐ手白香皇女との婚姻が条件であったとみられる記述が『記』にみえます。

天皇既に崩りますに、日続を知らすべき王無し。

故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を、近淡海国より上り坐さしめて、

手白髪命に合せて、天の下を授け奉りき。

継体は、即位前に尾張連草香の娘目子媛と結婚し、目子媛との子2人が後継大王(安閑・宣化)となっています。

政治的強度においては目子媛との婚姻で即位は可能であったとみられますが、それでも尚、「手白髪命に合せて、天の下を授け奉りき」と、当該血統上の女性との婚姻が一義的条件となっていることが注目されます。

和珥春日后妃の血統は、5世紀後半から6世紀前半の国家形成の重要な時期と重なって展開しており、①②③の点は、その経過を探るうえで鍵となるかと思います。

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