吉備津彦の温羅退治伝承

吉備の中山の西麓に鎮座する吉備津神社は、『延喜式』神名帳の備中国賀夜郡に名神大社として吉備津彦神社と記されます。

社伝によると、吉備津彦命の5代の孫の加夜臣奈留美命が吉備の中山の麓に吉備津彦命が建立した「茅葺宮」という斎殿の跡に社殿を営み祖神の吉備津彦命を祀り、相殿に8柱の神を祀ったのが当社正宮の起源とされます。

回廊の途中に、吉備津彦命による温羅(鬼)退治に関わる御釜殿という社殿があり、江戸時代に作成された種々の縁起が伝わります。

縁起によると、吉備津彦命は温羅(うら)を退治して備前の首村に首をさらしたが何年もうなり続けたため、御釜殿の竈の地下8尺に埋めたもののうなり声は13年間止むことはなく、ある夜、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現れ、「我妻、阿曾郷の祝の娘阿曾媛に釜殿の神饌を炊かせよ、もし世の中に事あるとき、竈の前に参れば、幸あれば豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴るであろう」と告げたと記され、鳴釜神事の起源となっています。

また、神官家について、「国造本紀」にみえる加夜国造の後裔とする所伝をもつ賀陽氏が、最も早い時期の史料に確認できます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):岡山県:岡山市>旧賀陽郡地区>宮内村>吉備津神社)

温羅伝承についての着眼点は次のとおりです。

『紀』応神紀22年9月条に吉備の5勢力についての記述がみえ、「国造本紀」にこれに対応する5国造がみえます。

『紀』応神紀22年9月条「国造本紀」
川嶋県  稲速別 (下道臣始祖)下道国造 兄彦命亦名稲建別
上道県  仲彦  (上道臣・香屋臣始祖)上道国造 中彦命児多佐臣
三野県  弟彦  (三野臣始祖)三野国造 弟彦
波区芸県 鴨別  (笠臣始祖)笠臣国造 鴨別命八世孫笠三枝臣
苑県   浦凝別 (苑臣始祖)加夜国造 上道国造同祖 中彦命

『紀』と「国造本紀」を比べてみると、前者にみえる苑臣始祖の浦凝別の苑県が後者になく、かわりに前者に上道臣とともに上道県に属していた香屋臣が独立して加夜国造となっていることがわかります。

吉備津神社の社伝に、吉備津彦命の「茅葺宮」跡に社殿を建立したのが「加夜臣奈留美命」とあり、神官家が加夜国造の後裔を称する賀陽氏であり、さらに、吉備津彦命が退治した鬼が「温羅(うら)」なのは、加夜臣が浦凝別の苑県を奪うかたちで成立したことを示しています。

また、加夜臣が上道臣からの分離独立とみられる点について、吉備津彦は上道臣と密接な関係を築いた後に、関係を利用して苑県を奪う行為に出たと推測されます。

吉備津彦は、彦五十狭芹彦ともよばれ、『紀』崇神紀に、出雲振根を討伐したことが記されます。

出雲振根討伐の話は、出雲斐伊川流域の製鉄・鍛造勢力を大王直下に掌握したことを描いた寓話と推測されます。(→ 『記』『紀』出雲討伐伝承

吉備津彦の温羅退治伝承において、温羅は「自分の妻である阿曾郷の祝の娘阿曾媛に御釜殿の神饌を炊かせよ」と言って、阿曾郷と近しい関係にあることが窺われますが、阿曾郷は、足守川右岸、血吸川流域の岡山市西阿曽・東阿曽を遺称地とし、古くから鋳物業が発達した土地として知られます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):岡山県:総社市>阿曾郷)

温羅退治伝承も、製鉄・鍛造勢力の掌握を描いた寓話とみられ、吉備津彦は、出雲・吉備と、製鉄・鍛造勢力の直接掌握を強力に推し進めたことが窺えます。

吉備津神社の社殿を創建した「加夜臣奈留美」について、『延喜式』神名帳の大和国高市郡にみえる「加夜奈留美命神社」に酷似することに注目します。(→ 大和国高市郡の加夜奈留美命神社

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