倭文神建葉槌と下照姫

伯耆国一の宮、『延喜式』神名帳伯耆国河村郡の倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)は、倭文神建葉槌とともに下照姫を祭神とします。

宝暦3年(1753)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では祭神を下照姫とし、古くから安産の神として崇敬され、下照姫にまつわる伝承も残ります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):鳥取県:東伯郡>東郷町>宮内村>倭文神社)

下照姫は、『記』『紀』の味耜高彦根伝承にもみえます。

天稚彦は、国譲りのため葦原中国に派遣されましたが、居着いた末に、天からの使者の雉を射て、その矢が返ってきて落命します。

喪屋に、天稚彦に酷似する味耜高彦根神が現れて、縁者等が天稚彦が生き返ったと喜ぶと、味耜高彦根神は死者に間違われたことを怒って喪屋を斬り、美濃に落下した喪屋は喪山となります。

『紀』神代紀第9段本文と『記』は、天稚彦の妻を「下照姫」とし、一書第1は、「或るいは云はく」として、味耜高彦根神の妹を「下照媛」と記します。

また、一書第1に記された歌に「弟織女(おとたなばた)」がみえ、機織り集団との関係が窺われます。(『記』にもほぼ同じ歌がみえます)

天なるや 弟織女の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや 

み谷 二渡らす 味耜高彦根

また、「喪山」の比定地の1つに、岐阜県不破郡垂井町の葬送山(通称喪山)がありますが、『常陸国風土記』久慈郡条に、長幡部の遠祖は喪山近くの「引津根(曳常)」から来たことが記され、周辺に機織り集団の存在が認められます。(→ 『常陸国風土記』の長幡部伝承

『延喜式』神名帳の摂津国東生郡の比売許曾神社(大阪府大阪市東成区東小橋)は、『延喜式』臨時祭条に「比売許曾神社一座〈亦号下照比売〉」、『延喜式』四時祭条に「下照比売社一座〈或号比売許曾社〉と記され、「下照比売社」ともよばれます。

『記』応神記によると、難波の比売語曾神社の祭神は天之日矛の妻とされます。

天之日矛は、ある男から貰った玉が乙女となり結婚しましたが、ぞんざいに振る舞ったので逃げてしまい、妻は難波に至り、比売碁曾社に坐す阿加流比売神となりました。

また、天之日矛の系譜では、日矛の子孫の名が但馬国出石郡から「当摩(当麻)」「高額」という大和国葛下郡の地名を冠するものへと移り変わります。(→ 天之日矛の系譜

当麻の西北方1.6kmに、葛木倭文坐天羽雷命神社(奈良県葛城市加守)があり、南方2.1kmに、博西神社(葛城市寺口、葛木倭文坐天羽雷命神社の論社)の元宮とされる棚機の森(葛城市太田)があり、天之日矛伝承と倭文神との関係が示唆されます。

味耜高彦根伝承と天之日矛伝承は、男女神ペアの話で、男神は荒々しい気質を持ち、女神は「下照姫」を称し、また、背後に倭文や長幡部など機織り集団が存在するという共通点を持ちます

味耜高彦根神は「出雲の国譲りに失敗して死んだ」天稚彦の再生と示唆され、天之日矛(天日槍)は『紀』の垂仁段の冒頭、崇神段最後の大テーマである出雲討伐伝承の後に設置され、ともに出雲と関係を持つ点も注目されます。

崇神段の出雲討伐伝承に、強引に事を進めて遺恨と混乱を齎したことが描かれており、味耜高彦根伝承と天之日矛伝承は、その後の事態収拾のための祭祀を描いているのではないかと考えます。(→ 倭文神建葉槌と三輪山の建甕槌)

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