倭日向武日向八綱田

『紀』垂仁紀5年10月条に、上毛野君遠祖八綱田が狭穂彦の謀反を鎮圧して「倭日向武日向八綱田」の称号を贈られたことがみえます。

倭日向武日向八綱田は、『姓氏録』に豊城入彦の子と記され、後裔氏族として和泉国皇別の登美首、軽部、未定雑姓摂津国の我孫、未定雑姓和泉国の我孫公の4氏がみえます。

登美首の「登美」は、大和国添下郡、城上郡にも認められる地名ですが、佐伯有清氏は、『姓氏録』河内国皇別の豊城入彦後裔の止美連の項にみえる百済国の止美邑と考えられておられます。(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考証篇第2』1982年、498頁)

軽部は、『和名抄』和泉国和泉郡軽部郷、我孫・我孫公は、我孫子郷の勢力とみられます。

軽部郷は、大阪府和泉市の肥子町・井ノ口町・小田町・和気町、泉北郡忠岡町の馬瀬・北出・高月地区に比定されます。

我孫子郷は、『和名抄』にはみえませんが、和泉市府中町に西接する地域を中心として下条大津付近にまで及ぶ、古くからの地域の称です。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):大阪府:泉大津市>我孫子郷、和泉国>和泉郡>軽部郷)

倭日向武日向八綱田後裔の3氏族は、槇尾川・松尾川・牛滝川の下流域を拠点とする一体性が窺えます。

当該地域の一義的属性は、茅渟を代表する海上交通の要衝、和泉大津です。

倭日向武日向八綱田は、和泉大津を掌握し、在地勢力を采配できる地位にあったものと思われ、名に含まれる2つの「日向」は、海路で南九州と通じていた可能性を示します。

狭穂彦の謀反は、妹の狭穂媛の夫である活目入彦五十狭茅(垂仁)に対し起こされました。

「活目」は生駒、「狭穂」は添上・添下の「添」を示し、実態は生駒の勢力の分裂と思われ、そこに茅渟が介入した構図が窺われます。(→ ホムツワケ伝承と製鉄

『神社覈録』(鈴鹿連胤、1902年)は、『延喜式』神名帳の大和国添下郡の大和日向神社を在所未詳としながら祭神を倭日向武日向八綱田とします。また、『大和志』に「大和日向神社<鍬靫、在所未詳、春日山頂浮雲宮即此三輪山巓亦有此祠」とあるように、御蓋山頂の浮雲宮(春日大社摂社の本宮神社)を大和日向神社とする説があります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):奈良県:奈良市>奈良公園地区>本宮神社)(→ 春日神遷幸の旧跡)

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