『記』『紀』に、筑紫日向小戸橘檍原でイザナキが禊ぎをした時に、津守連が住吉大社で奉祭する住吉3神と阿曇連が志賀海神社で奉祭する海神3神がペアで生まれたことが記されます。
又海の底に沈き濯ぐ。
因りて生める神を、号けて底津少童命と曰す。
次に底筒男命。
又潮の中に潜き濯ぐ。
因りて生める神を、号けて中津少童命と曰す。
次に中筒男命。
又潮の上に浮き濯ぐ。
因りて生める神を、号けて表津少童命と曰す。
次に表筒男命。
凡て九の神有す。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神なり。
底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。
『紀』神代紀第5段一書第6
次に、水底に滌ぎし時に、成れる神の名は、底津綿津見神。
次に、底箇之男命。
中に滌ぎし時に、成れる神の名は、中津綿津見神。
次に、中箇之男命。
水の上に滌ぎし時に、成れる神の名は、上津綿津見神。
次に、上箇之男命。
此の三柱の綿津見神、阿曇連等が祖神と以ちいつく神ぞ。
故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金析命の子ぞ。
其の底箇之男命・中箇之男命・上箇之男命の三柱の神は、
墨江の三前の大神ぞ。
『記』
住吉3神と海神3神のペアでの誕生は何を意味するのか。
『記』『紀』仲哀段に、筑紫橿日宮で顕れた住吉3神が神の教えに背いた仲哀天皇を絶命させ、新しい王、すなわち応神天皇の誕生を告げる記述がみえ、筑紫橿日宮と住吉3神の密接な関係が窺われます。(→ 住吉大神の出現と応神誕生)
いっぽう、海神3神は、『延喜式』神名帳の筑前国糟屋郡の志賀海神社に奉祭されています。
志賀海神社の鎮座する志賀島は、陸から延びた砂洲の「海の中道」につながる陸繋島で、博多湾と玄界灘を区切る位置にある海上交通の要衝であり、「漢委奴国王」の金印が発見されたことでも知られています。
『釈日本紀』所引『筑前国風土記』逸文の糟屋郡資珂嶋条に、次のようにみえます。
昔時、気長足姫の尊、新羅に幸しし時、御船、夜時にこの嶋に来り泊りけり。
陪従に名を大浜と小浜といふ者あり。
便ち小浜に勅してこの嶋に火を覓めに遣はしたまふに、得て早く来つ。
大浜、問ひて云はく「近くに家ありや」といふ。
小浜、答へて云はく「この嶋と打昇の浜とは近く相ひ連接きて、
殆に同じき地と謂ふべし」といふ。
因りて近の嶋と曰ふ。
今、訛りて資珂の嶋と謂ふ。
「大浜」は、『紀』応神紀3年11月条にみえる、阿曇連の祖大浜宿禰とみられます。
「海の中道」より博多湾の海岸線に沿ってやや南に向かうと、筑紫橿日宮の故地である香椎へ至り、立花山の南西麓に香椎宮が鎮座します。
古代には、「香椎浦」「香椎潟」とよばれた潟湖が形成され、『万葉集』巻15に、「かしふ江に鶴鳴きわたる志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも」とあって、香椎潟と志賀島が一体的に描かれています。
『日本三代実録』貞観18年(876)正月25日条に、「香椎廟宮毎年春秋祭日、志賀嶋白水郎男十人女十人奏風俗楽」と記され、香椎宮の春秋の祭日に、志賀島の白水郎の男女20人が風俗楽を奏したことがみえ、香椎宮と志賀島の交流が認められます。
香椎宮の末社として、香椎川下流の旧海岸線に鎮座する浜男神社の「浜男」は、阿曇連の祖として史料にみえる「大浜」「小浜」「浜子」との関連が想像されます。
香椎宮の神官について、『朝野群載』巻6の寛治7年(1093)12月7日太政官符に、膳伴宿禰範宣、その高祖父、公武・経行らの名がみえるのが、確実な史料のなかに最も早く確認できる神官とされます。
香椎宮の縁起である『香椎宮編年記』には、神官家として、膳伴宿禰、大中臣朝臣、武内宿禰、清原真人の4氏を記し、阿曇連の名はありません。
膳伴宿禰氏は、大彦後裔の膳大伴部の流れをくむ氏族であり、『本朝月令』6月11日神近食祭事条所引の『高橋氏文』に、安曇宿禰と高橋朝臣の大膳をめぐる争いが注目されます。
膳大伴部を統轄する高橋朝臣と安曇宿禰(阿曇連)のあいだに職掌の正統性をめぐる争いが生じたのは、2者の属性の近さを呈示します。
津守連の奉祭する住吉3神と阿曇連の奉祭する海神3神は、『記』『紀』神代段のペアでの誕生記述とともに、香椎潟と志賀島の地域的一体性、香椎宮の諸属性など、様々な点において不可分の関係が認められます。(→ 住吉仲皇子の乱)