『延喜式』神名帳の播磨国餝磨郡にみえる射楯兵主神社は、姫路城の南、姫路市総社本町に鎮座し、射楯大神・兵主大神の2神を祭神とします。
『播陽万宝智恵袋』(宝暦10年(1760)成立)所引「府中社略記」に、兵主神(大己貴命)は、延暦6年(787)に西方の水尾山から小野江に遷祠されたとみえ、旧社地「水尾山」は、姫路市山野井町の男山とされます。(『日本歴史地名大系』(JapamKnowledge):兵庫県:姫路市>姫路城下>小桜町>射楯兵主神社、姫路城下>岐阜町、姫路市>旧飾磨郡地区>山井村)
いっぽう、『播磨国風土記』餝磨郡因達里条に、次のような記述がみえます。
右、因達と称ふは、息長帯比売の命、韓国を平けむと欲して、渡り坐しし時に、
み船前に御しし伊太代の神、此処に在す。
故れ、神のみ名に因りて里の名と為す。
『播磨国風土記』餝磨郡因達里条
「因達」の地名は、息長帯比売(神功皇后)が朝鮮半島に出兵した時に、船先に奉祭された「伊太代(いたて)の神」に因むことがわかります。
因達(いたて)里は、姫路市街地の北、八丈岩山の南麓一帯に比定され、行矢射楯兵主神社(姫路市辻井4丁目)が鎮座します。
『播磨鑑』(宝暦12年(1762))に、「射楯兵主神」は辻井村にありと記され、神功皇后が麻生山から3本の矢を射て、1つは青山、1つは手柄山、1つは辻井に落ち、3箇所に行矢の社が建てられたといわれ、『飾磨郡誌』(1927年)は、辻井の行矢射楯兵主神社を式内社にあてます。(『日本歴史地名大系』(JapamKnowledge):兵庫県:播磨国>飾磨郡>印達郷、姫路市>旧飾磨郡地区>辻井村)
総社の射楯兵主神社の旧社地と行矢射楯兵主神社はともに、八丈岩山の南に位置し、飾磨郡因達里が本来的な神地とみられ、「伊太代の神」「射楯兵主神社」「因達里」の「いたて」は、同義といえます。
着眼点は、2つあります。
① 火明との関係
『播磨国風土記』餝磨郡伊和里条に、大己貴と火明の話がみえます。
大汝(大己貴)が子の火明の乱暴に手を焼いて、「因達の神山」に捨て置いて逃げたところ、怒って追いかけて来て、父の船を粉々にし、様々なものが落下して、その南方の14丘の地名が定まりました。
伊和里は、宍粟郡の伊和神社の奉祭勢力の関わる土地とあり、大己貴神・火明の2神の属性は、伊和神社にも認められます。(→ 播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社)
「因達の神山」は、八丈岩山に比定され、大己貴の船が落下した「船丘」は、水尾山の南西400mの景福寺山とされます。
「船」を操る神と、八丈岩山と南方の諸丘を舞台とする点において、射楯兵主神と火明の属性が一致し、「因達の神山」に祭祀された神はどちらともとれることがわかります。
② 五十猛との関係
『延喜式』神名帳の播磨国揖保郡の中臣印達神社は、兵庫県たつの市揖保町中臣に鎮座し、「印達(いたて)」は、飾磨郡の「伊太代」「射楯」「因達」と同義とされます。
中臣印達神社は、五十猛を祀ります。
五十猛は、『記』『紀』に船に使われる木種をもたらした神と記され、紀伊国名草郡の伊太祁曾神社、伊達神社の祭神です。(→ 紀伊国名草郡の伊太祁曾神社)
「伊達(いだて)神」は、『住吉大社神代記』に、住吉大神の子神の「船玉神」とあり、『播磨国風土記』の「み船前に御しし伊太代の神」と同じ性格を示します。
播磨国の「伊太代」「射楯」「因達」「印達」の神は、紀伊国の「伊達」の神と同神とみられます。
①②から、播磨国飾磨郡の射楯兵主神について、火明と五十猛の2神との混交が認められます。
このことは、何を意味するのか。
火明と五十猛は、「船」を使う海洋勢力の奉祭神とみられ、一方が他方の再起動であった可能性があります。(→ 天照御魂神と素戔鳴と紀直)