播磨国一宮として知られる、伊和神社(兵庫県宍粟市一宮町須行名)は、『延喜式』神名帳の播磨国宍粟郡に「伊和坐大名持御魂神社」と記され、大名持御魂神(大己貴神)を祭神とします。

「伊和の大神」の伝承は、『播磨国風土記』の宍禾・揖保・餝磨・神崎・託賀の5郡の諸地域にみえ、播磨国内の広域に影響力をもつ神格ですが、鎮座地にあたる地域に、起源についての記述がないことに注目します。
石作の里。〈本の名は、伊和なり。〉土は下の中。
石作と名づくる所以は、石作の首等、この村に居めり。
故れ、庚午の年に、石作の里と為す。
『播磨国風土記』宍禾郡石作里条
伊和の村。〈本の名は、神酒なり。〉
大神、酒をこの村に醸みたまふ。故れ、神酒の村と曰ふ。
又、於和の村と云ふ。
大神、国作り訖へて以後、云りたまひしく、
「於和。我が美岐と等し」とのりたまひき。
『播磨国風土記』宍禾郡伊和村条
宍禾郡は、比治・高家・柏野・安師・石作・雲箇・御方の7里で構成され、石作里条に、以前の名称が「伊和」とみえ、伊和神社は石作里に属したと推測されます。
しかし、石作里条に伊和大神の記述はなく、宍禾郡の末尾に「伊和村」の項が立てられ、伊和大神の神酒の話が記されます。
「神酒(みわ)」の話は、『紀』崇神紀8年4月条・12月条の三輪神をめぐる神酒の記述との関係を想起させ、「みわ」の音も含めて、伊和大神が、『紀』神代紀第8段一書第6に三諸山の祭神としてみえる大己貴神と同神であることを示しています。(起源譚ではありません)
石作里条には、石作首の居住を地名の起源とすることのみが記されます。
石作首は、『姓氏録』に載る石作連、石作の同族とみられ、火明(ほあかり)後裔氏族です。
いっぽう、『和名抄』(934頃成立)には、伊和郷と石作郷の2郷がみえ、中世石作庄の庄域が揖保川東岸の宍粟市山崎町矢原・神谷・三谷・中・高所・須賀沢、西岸の三津に相当することから、伊和郷は伊和神社周辺に、石作郷はその南の揖保川流域に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):兵庫県:宍粟郡>山崎町>石作庄、播磨国>宍粟郡>伊和郷、石作郷)
『和名抄』の頃までに、伊和神社の周辺は、石作郷から独立して伊和郷となったことがわかります。
なぜ、『播磨国風土記』の石作里条は、伊和神社の鎮座の記述を欠くのか。
『播磨国風土記』餝磨郡伊和里条に注目します。
伊和の里。
〈船丘・波丘・琴丘・匣丘・箕丘・日女道丘・
ふじ丘・稲丘・冑丘・鹿丘・犬丘・甕丘・筥丘〉
土は中の上。
右、伊和部と号くるは、積さはの郡の伊和の君等が族、到り来て此に居めり。
故れ、伊和部と号く。
『播磨国風土記』餝磨郡伊和里条
飾磨郡伊和里は、姫路市手柄山付近から南西にわたる地域に比定されます。
伊和里のもとの名は「伊和部」で、伊和神社の在地勢力とみられる、宍粟(積さは)郡の伊和君の移住により名付けられたことがみえます。
さらに、次のような伝承が記されます。
昔、大汝の命の子、火明の命、心も行も甚強し。
是を以て、父神患ひたまひて、遁げ棄てむと欲しき。
すなはち因達の神山に到り、その子を遣りて水を汲ましめ、
還らざる以前に、すなはち発船して遁げ去りき。
ここに、火明の命、水を汲みて還り来て、
船の発ち去くを見るすなはち大く瞋り怨む。
仍りて風波を起こし、その船に追ひ迫む。
ここに、父神の船、進行す能はずて、遂に打ち破らえき。
所以に、其処を船丘と号け、波丘と号く。
『播磨国風土記』餝磨郡伊和里条
大己貴(大汝)神は、乱暴な子の火明(ほあかり)に手を焼いて、因達の神山に捨て置いて逃げたところ、怒って追いかけてきて父の船を粉々にし、船丘・波丘の地名の起源となりました。
続いて、落下した様々なものに因んで伊和里の割注にみえる11丘の名が定まったことがみえます。(割注にはない「沈石丘」も記され、12丘みえます)
「因達の神山」は、飾磨郡因達里に属する姫路市街地北部の八丈岩山とされ、八丈岩山から南に向かって父を追った火明の怒りの痕跡が伊和里の所々の丘に残ったことが描かれます。
また、貽和(伊和)里の馬墓池について、尾治連らの上祖長日子の造った墓に因む名称と記され、伊和里と火明の後裔氏族である尾張連(尾治連)が認められます。
馬墓池は、大己貴の船が落下したという船丘の北に位置します。
火明は、『記』『紀』に、瓊瓊杵(ににぎ)の子もしくは兄弟とされ、素盞鳴(すさのを)の子孫の大己貴の子とあるのは一見錯簡かと思われますが、『播磨国風土記』のなかに見過ごすことの出来ない構図が認められます。
大己貴を祭神とする伊和神社の鎮座地は宍粟郡石作里であり、在地勢力は火明後裔の石作首です。
伊和神社の勢力とみられる伊和君が移住したという飾磨郡伊和里に、大己貴と火明の伝承が伝わります。
大己貴と火明の伝承地である「船丘」に、火明後裔の尾張連の伝承が残ります。
伊和神社について、大己貴と火明の重層性が認められ、『播磨国風土記』飾磨郡伊和里の2神の伝承からみると、基層に火明があり、それを温厚な大己貴が包摂する形態をとっているのではないかと思います。
「因達の神山」は、播磨国飾磨郡の射楯兵主神社、揖保郡の中臣印達神社、紀伊国の伊達・志磨・静火の紀三所社につながります。(→ 播磨国飾磨郡の射楯兵主神社)