応神妃日向泉長媛

『記』『紀』によると、日向泉長媛という応神の妃がいます。

『紀』では、2人のあいだに、大葉枝皇子・小葉枝皇子という子がいたことがみえ、『記』では、この2人に加えて、幡日之若郎女という子も記されます。

幡日之若郎女の「幡日」は「幡梭(はたび)」と同義であり、履中妃の草香幡梭皇女は、この幡日之若郎女ではないかという見解があります。(→ 日下の后妃

応神と日向泉長媛の子が、草香幡梭皇女であり、仁徳と日向諸県君髪長媛の子たちと一緒に、日下(草香)の一族を形成していたとすると、応神と仁徳をめぐる日向の妃の婚姻問題は異なる様相を示してきます。(日向泉長媛という名は、『紀』景行紀18年3月条にみえる、諸県君泉媛と類似します)

『紀』応神紀13年9月条の異伝では、日向諸県君牛は、応神に仕えていたが、年老いて故郷に帰ることになったので、娘の髪長媛を奉ったと記されています。

断片的な数々の情報からの憶測となりますが、仁徳と日向諸県君髪長媛の結婚以前に、応神は、日向諸県君と密接な関係を構築していたと想像されます。

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