「建国神話」の主人公は誰なのか

『記』『紀』欠史八代系譜に、磯城(師木)県主・十市県主の后がみえます。

『記』は、2代〜4代の綏靖・安寧・懿徳と7代の孝霊の4人の天皇に、『紀』は、7代の本文と2代〜7代の2つの一書に記されます。

『記』の師木県主・十市県主の后妃を系図にすると次のとおりです。

   神沼河耳(綏靖
    ├─師木津日子玉手見(安寧
 ┌─師木県主祖河俣毘売 ├─┬─常根津日子伊呂泥
 └─県主波延──阿久斗比売 ├─大倭日子鉏友(懿徳
               │ ├─┬─御真津日子訶恵志泥(孝昭
               │ │ └─多芸志比古
               │ 師木県主祖賦登麻和訶比売(飯日比売)
               └─師木津日子─┬─○
                       └─和知都美〈淡路御井宮に坐しき〉┐
 ┌──────────────────────────────────────┘
 └─┬─蠅伊呂泥(意富夜麻登久邇阿礼比売)
   │            ├─┬─夜麻登々母々曾毘売
   │            │ ├─日子刺肩別
   │            │ ├─比古伊佐勢理毘古(大吉備津日子)
   │            │ └─倭飛羽矢若屋比売
   │            │      
   │            │      
   └─蠅伊呂杼       │
      ├─┬─日子寤間  └───┐      
      │ └─若日子建吉備津日子 │
      │         ┌───┘
      │         │
     大倭根子日子賦斗邇(孝霊
      ├──千々速比売  │
     春日千々速真若比売  │
                ├──大倭根子日子国玖琉(孝元)   
       十市県主祖大目──細比売  

『紀』の后は、次のとおりです。

本文一書一書
綏靖事代主神少女
五十鈴依媛
磯城県主女
川派媛
春日県主大日諸女
糸織媛
安寧事代主神孫 鴨王女
渟名底仲媛(渟名襲媛)
磯城県主葉江女
川津媛
大間宿禰女
糸井媛
懿徳息石耳女
天豊津媛
磯城県主葉江男弟猪手女
泉媛
磯城県主太真稚彦女
飯日媛
孝昭尾張連遠祖瀛津世襲妹
世襲足媛
磯城県主葉江女
渟名城津媛
倭国豊秋狭太媛女
大井媛
孝安(蓋し)天足彦国押人女
押媛
磯城県主葉江女
長媛
十市県主五十坂彦女
五十坂媛
孝霊磯城県主大目女
細媛
春日千乳早山香媛十市県主等祖女
真舌媛

『記』系譜の安寧后阿久斗比売の父、県主波延の「波延」、『紀』系譜の一書の磯城県主葉江の「葉江」、『記』『紀』孝霊妃の蠅伊呂泥(絚某姉)・蠅伊呂杼(絚某弟)の「蠅(絚)」など、「はえ」を名とするものが多数みえます。

『記』系譜によると、蠅伊呂泥・蠅伊呂杼の姉妹は、阿久斗比売の曽孫にあたるので、「波延」と「蠅」は同義で、おそらく一族の指標と思われます。

蠅伊呂泥の子に、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)、蠅伊呂杼の子に、日子寤間(ひこさめま)がみえ、前者は、高志利波臣・豊国国前臣・五百原君・角鹿海直の祖、後者は、針間牛鹿臣の祖とあります。

高志利波臣は、越中の小矢部川河口域「曰理湊」、豊国国前臣は、豊後「国埼津」、五百原君は、駿河三保「入江浦」、角鹿海直は、越前「敦賀津」、針間牛鹿臣は、播磨の加古川河口域「鹿子水門」と、いずれも倭国有数の湊を拠点とする勢力です。

蠅伊呂泥・蠅伊呂杼について、父の和知都美は「淡路御井宮」におり、子の日子寤間・日子刺肩別は後裔氏族が港津勢力であることから、当該系譜は海洋系勢力のものと思われ、「はえ」は「南風」かと想像されます。(→ 磯城県主・十市県主の系譜

なお、『紀』系譜に、日子寤間にあたる彦狭島はみえますが、日子刺肩別はみえず、両者は類似する名称から同一人物と考えられています。

彦狭島(日子寤間・日子刺肩別)は、後裔氏族の様相から越中・豊後・駿河・越前・播磨の主要港を支配下に治めていたとみられますが、その属性は、単なる海の有力者を越えて倭王といえるのではないかと思います。

さて、山尾幸久氏は、『記』『紀』の題材となった帝紀・旧辞について、帝紀を歴代天皇の系譜的記事、旧辞を神話・伝承や歴代の物語的記事とする通説ではなく、旧辞を神代の系譜や物語、帝紀を物語を含む歴代帝王の事績とみる、少数派の説を支持し、『記』でいうと、上巻が旧辞で、中・下巻を帝紀とみておられます。(山尾幸久『「大化改新」の史料批判』2006年、134~136頁)

考え方の核心は、系譜と物語は一体的であるという点にあります。

そのうえで、次のようにいわれます。

反逆者の話や王位相譲の物語や貴種流離譚がない「帝皇日継」(「闕史八代」の如き体裁)など、考え難いではないか。

山尾幸久『「大化改新」の史料批判』136頁

磯城県主系譜に対応する物語が、『記』『紀』に記されなかったということならば、彦狭島の事績は永遠にわからないままですが、そうは断定できないのではないかと考えます。

綏靖・安寧の2代の后について、『記』は、師木県主の女性、『紀』は、事代主神の子及び孫とあり、『記』『紀』で異なりますが、土地属性はともに三輪山と摂津三島を示します。

『紀』系譜は、三輪山と密接な関係をもつ事代主神と摂津三島の女性との神婚により生まれた神武后の媛蹈鞴五十鈴媛を起点とするもので、『記』系譜の師木県主の本拠地の志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋)は三輪山の山麓にあり、『記』安寧后の阿久斗比売は、摂津国島上郡の阿久刀神社(大阪府高槻市清福寺町)を示します。

『紀』系譜の一書の孝霊妃の十市県主等祖女真舌媛の「真舌」も、摂津三島の正雀付近の地名です。

事代主神系譜と磯城県主系譜は、三輪山と摂津三島を結ぶ、同一のネットワークを描いており、前者は摂津三島から、後者は三輪山からの視点によるものと推測されます。

つまり、磯城県主系譜は、神武と媛蹈鞴五十鈴媛の結婚の物語と一体的関係にあります。

次に、『記』『紀』磯城県主系譜と共通要素が認められることで知られる、『和州五郡神社神名帳大略註解巻四補欠』所引「十市県主系図」に注目します。(→ 十市県主系図

「十市県主系図」に、「大依長柄首、鰐児臣、和泉長公等遠祖」という「建𤭖槌命」、「中原連、山代石辺君等祖、十市県主」という「倭絙彦」がみえます。(「絙」は「はえ」)

「建𤭖槌命」は、『記』崇神段の大物主神祭祀者系譜にみえる「建甕槌命」、「大依長柄首」「和泉長公」は、『姓氏録』に、事代主神後裔氏族としてみえる「長柄首」「長公」、「鰐児臣」は、『姓氏録』に大国主神6世孫阿太賀田須命後裔氏族としてみえる「和仁古」を示します。

十市県主と同祖関係にある「山代石辺君」は、『姓氏録』に大物主命の子久斯比賀多後裔氏族としてみえる「石辺公」であり、「久斯比賀多」は、『記』『紀』崇神段の大物主神祭祀者系譜に「櫛御方」「奇日方天日方」とみえます。

十市県主系譜に記された勢力は、崇神段の大物主神祭祀と密接に関係しています。

『記』『紀』欠史八代の磯城県主系譜は、神武段と崇神段の物語に対応しています。

彦狭島は、神武段にも崇神段にも登場しませんが、『紀』崇神紀に、彦狭島の異母兄の吉備津彦についての記述がみえ、『紀』景行紀に、崇神の子の豊城入彦の孫の彦狭島という同名の人物がみえます。

もう1人の彦狭島と吉備津彦の動向を注意深く探りたいと思います。(→ 出雲の神宝は返されたのか)(→ 「さしま」と「かしま」)

もう1点、彦狭島と吉備津彦の父である孝霊天皇の陵のある片丘は、『紀』綏靖紀に、神武の媛蹈鞴五十鈴媛ではないほうの妃の子の居住地とされ、そこで彼が殺されてしまったことに注目したいと思います。(→ 片丘馬坂陵・片丘石杯陵)

目次