『紀』崇神紀60年7月条に、吉備津彦による出雲振根討伐の話がみえます。
山尾幸久氏は、出雲神話についての講演のなかで、この話を少しだけ取りあげておられます。
つい先日、テレビに門脇禎二さんが出演されていて、出雲に関する伝承でいちばん古いのは、『日本書紀』の崇神天皇のところに書かれている物語であると話しておられました。そして、出雲神話をいちばん新しい伝承として位置づけられていましたが、私はこの見方に基本的に賛成なのです。
『日本書紀』の崇神天皇の六十年のところに、出雲国造家出雲臣一族の祖先神が天から持ってきた神の宝を一時天皇が取上げる話があります。そして出雲振根という有力な族長を殺して、改めて神宝を返して祭らせるという話が出ております。私はまだ崇神天皇の巻の伝承をよく考えたことがありませんので、意見は保留しておきますが、少なくとも出雲神話よりは古い伝承であることは確かであろうと思います。
山尾幸久「神話の出雲」(『日本古代の国家形成』1986年)
『紀』崇神紀60年7月条の話は、次のような経過をたどります。
出雲大神の宮で神宝を管理していた出雲振根が留守のあいだに、朝廷の使いが来て神宝を持ち出し、求めに応じた弟を振根が責めて殺すと、吉備津彦と武渟河別がやって来て振根を殺します。
畏れをなした出雲臣は出雲大神の祭祀を中止し、しばらく時が流れると、丹波の氷上の氷香戸辺という人があいだにはいって、神のことばを皇太子であった垂仁天皇に伝えて、勅によって祭祀が再開されます。(→ 出雲振根の討伐)
注目したいのは、朝廷の使いが持ち出した神宝のゆくえです。
『紀』崇神紀60年7月条に、神宝がどうなったのかは記されておりません。
山尾氏は、「神宝は一時天皇が取りあげたけれど、改めて出雲に返して祭らせた」と言われます。
これは、『紀』垂仁紀26年8月条に、物部十市根を出雲に遣わして神宝を検校させた話がみえ、その時点で出雲に神宝があったということならば、氷香戸辺のとりなしで祭祀がなされた時に出雲に戻されたのであろうと考えておられるのだと思います。
岩波文庫の『日本書紀(1)』(1994年)の注も、同様の見解を記します。(303頁)
しかし、持ち出された神宝は出雲に帰らなかった可能性があると考えます。
尾張国愛智郡の式内社で、熱田神宮の摂社の氷上姉子神社(愛知県名古屋市緑区大高町)は、熱田神宮の創建に関わる伝承を伝えます。
寛平2年(890)の「尾張国熱田太神宮縁起」は、尾張国愛智郡氷上邑の家にヤマトタケルが残した神剣を守っていた宮簀媛が熱田の社を建て神剣を祭祀することにし、その没後、家の跡に氷上姉子神社が創建されたと伝えます。
この伝承では、「氷上」は尾張国愛智郡の地名で、「氷上姉子」を宮簀媛としますが、「氷上」は丹波国氷上郡で、「戸辺」という女性であることを示す名の「氷香戸辺」が「氷上姉子」ではないかと考えます。
熱田神宮に祭祀される草薙剣は、八岐大蛇神話に、「出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地」(斐伊川源流域の船通山)で出現し、元の名は「天叢雲剣」であったと記されます。
出雲から持ち出された神宝とは天叢雲剣であり、倭王はそれを政治的理由で尾張の勢力に授与し、出雲に帰すことはできないけれど、出雲の意向に添った祭祀を尾張の地で行うことを約束するというのが落としどころとなり、和解を取り付けた氷香戸辺を祀る氷上姉子神社が創始されたと考えます。(→ 熱田神宮摂社の氷上姉子神社)
氷上姉子神社のほかに、根拠が3つあります。
1つは、吉備津彦とヤマトタケルの混交です。
『記』に、出雲振根の話はみえず、そのかわりに、ヤマトタケルがイヅモタケルを殺す話がみえます。
イヅモタケルは、『紀』で振根の別名とされ、『記』『紀』ともに同じ歌が添えられており、2つの話は同根とみられます。(その際にヤマトタケルが草薙剣を出雲から持ち出したとは書かれておらず、『記』『紀』ともに、叔母から授与され尾張に残して死んだとあるのは周知の通りです)
もう1つは、八岐大蛇神話と出雲振根討伐伝承の属性の重複です。
八岐大蛇神話にみえる大蛇を斬った剣は、石上神宮(石上坐布都御魂神社)に祭祀されますが、その元宮である備前国赤坂郡の石上布都之魂神社は、吉備津彦の後裔氏族である吉備上道臣の支配領域にあり、また、石上神宮楼門南の台地に、摂社として大和国山辺郡の式内社の「出雲建雄神社」が鎮座し若宮と称します。(→ 石上神宮の起源伝承)
もう1つは、出雲振根討伐伝承と垂仁段のホムツワケ伝承の連続性です。
ホムツワケ伝承は、垂仁天皇と狭穂媛の子、ホムツワケが従臣の尽力で言葉を取り戻す話です。
垂仁天皇の后の狭穂媛は、謀反に失敗した兄の砦にホムツワケを連れて隠り、放たれた火の中からホムツワケだけが助け出されましたが、ホムツワケは言葉を失っていました。
伝承では、出雲が重要な役割を果たします。
『紀』では、出雲で捕まえた鵠と遊んで言葉を取り戻し、『記』では、占いで言葉を失ったのは出雲大神の祟りとわかり、出雲に出向いて大神を拝して言葉を取り戻します。
『紀』には、出雲のどこで鵠を捕まえたのかは記されておりませんが、『姓氏録』に「出雲国の宇夜江」と具体的な地名がみえます。
『記』では、ホムツワケは、出雲大神を拝した後、肥河にしつらえた仮宮で出雲国造祖岐比佐都美(出雲国出雲郡の曾枳能夜神社(島根県出雲市斐川町神氷)の祭神)が献上した大御食を見て言葉を発しました。
宇夜江は出雲郡健部郷、曾枳能夜神社は出雲郡漆治郷に属し、2郷は仏経山北麓に並んで位置し、出雲国出雲郡のきわめてせまい地域がホムツワケ復活の鍵となっていることがわかります。
『出雲国風土記』に、宇夜の地は、「神門の臣古祢」をヤマトタケルの健部としたことによって健部郷となり、健部の臣は今もここに住むと記されます。(荒神谷遺跡は当地にあります)
ホムツワケ復活の鍵は、出雲振根にあり、崇神段と垂仁段の2つの物語は繋がっています。
また、『記』に、尾張の杉の船でホムツワケが遊んだことが記され、『尾張国風土記』逸文に、尾張国丹羽郡阿豆良神社(愛知県一宮市あずら)を舞台とするホムツワケ伝承の異伝がみえ、尾張が重要な位置を占めます。
ホムツワケは、出雲から持ち出されて霊力を失った天叢雲剣の寓意で、尾張での祭祀再開にいたる過程を描いていると考えます。(→ ホムツワケ伝承と出雲)
王権と出雲が和解にいたった、熱田での草薙剣祭祀の条件とは何だったのか。
『紀』崇神紀60年7月条に「武日照命〈一に云はく、武夷鳥といふ。又云はく、天夷鳥といふ。〉の天より将ち来れる神宝」とあることがヒントになります。
出雲臣の祖神とされる「武日照」は、「武夷鳥」「天夷鳥」「建比良鳥」とも記され、鳥であり、『紀』でホムツワケが言葉を取り戻すきっかけとなった鵠は「武日照」の寓意で、ホムツワケの養育氏族が鳥取なのも同じ意味をもつと思われます。
草薙剣は、武日照とセットで祭祀されることが条件であったと考えます。
鳥取と同祖関係にある倭文の神社は下照姫を奉祭し、鳥の禁忌が認められます。
下照姫も武日照の寓意とみられ、下照姫の登場する天之日矛伝承と味耜高彦根伝承は、王権支配域で広く武日照の祭祀が行われたことを示し、その時期は、尾張での草薙剣祭祀と同時期と推測されます。(→ 下照姫と武日照・天日別・天日鷲)
なぜ、王権は出雲の意向を受け入れて出雲の神の祭祀を行うことにしたのか。
天叢雲剣の持ち出しでどのような不都合が生じたのか。
出雲の神威とは何だったのか。
鳥取の本拠地の河内国大県郡にある大規模な鍛冶工房の遺跡や垂仁段の和泉鳥取での作刀記事から、鉄資源や鍛造技術に関わるのではないかと想像されますが、『出雲国風土記』のほか『播磨国風土記』『常陸国風土記』にも産鉄記事がみえ、『記』『紀』『続日本紀』には吉備・近江の鉄もみえることから、出雲の鉄資源の卓越性には疑問があり、また、これらの史料に韓鍛冶の技術が出雲経由で鳥取にもたらされたことを示す記述はありません。
問題の本質は、『記』ウケヒ神話にみえる総数19氏族の大系譜に現れていると考えます。
そこでは、武蔵・海上・伊甚・津島・遠江の5国造が建比良鳥の後裔氏族、河内・山城・茨城・馬来田・岐閉・周防の6国造が建比良鳥の兄弟神の後裔氏族とされます。
なぜ、列島広域の有力氏族が出雲系なのか。
和田晴吾氏は、『古墳と埴輪』(2024年)において、次のように述べておられます。
造墓組織は各地で大小さまざまな規模で作られ、階層差や地域差があったとしても、基本的には共通した様式の古墳が秩序だって造られた。たぶん、王権の中に古墳の儀礼を統括する職掌(部門)が組織されていたからなのだろう。では、その職掌は『記紀』に何らかの痕跡を残しているのであろうか。それを考える上で参考となるのが『紀』雄略九年の紀小弓の墓に関するもので、小弓が新羅との戦いの中で病死した時のことである。
是に、采女大海、小弓宿禰の喪に従りて、日本に到来り。遂に大伴室屋大連に憂へ諮して曰さく、「妾、葬むる所を知らず。願わくは良き地を占めたまへ」とまうす。大連、即ち為に奏したまふ。天皇、大連に勅して曰はく、「(中略)哀矜を致して、視葬者を充てむ。又汝大伴卿、紀卿等と、同じ国近き隣の人にして、由来ること尚し」とのたまふ。是に大連、勅を奉りて、土師連小鳥をして、冢墓を田身輪邑に作りて、葬さしむ。
ここで注目されるのは、有力な功臣である首長の墓域の選定に大王が係わり、しかも「視葬者」(古写本によっては「視喪者」)を遣わして墓を造らせたことである。
視葬者を雄略朝のものとして扱ってよいかどうかは即断できないが、当時の王権内にはそのような役割を担った人、ないしは組織があったことは間違いないものと思われる。
列島各地に共通する様式の大小数多くの古墳が築かれ、しかも、それらの間に、後述のような大王墳たる巨大前方後円墳を頂点とする階層的秩序が形成されていた背景には(133頁)、王権内において大王ないしは王権中枢の意志に基づき古墳造りを統括する職掌とそれに携わる人がいなければならない。ここでは視葬者をそのようなものとして評価したい。
和田晴吾『古墳と埴輪』(2024年)、123~125頁
視葬者の関与がどのレベルの古墳にまで及んだかは明確ではないが、少なくとも大王とその近親や有力な首長の古墳が対象となっていたことはほぼ間違いないだろう。さらに、地域の有力な首長の組織の中には、それと同様の役割のものが組織されていて、さらに下のレベルの古墳や方形周溝墓・台状墓づくりにまで何らかの関与をしていた可能性もある。王権中枢で生みだされた新しい古墳づくりの様式は、このようにして地域的にも階層的にも拡散しつづけ、それは集団の、ひいては王権の統合に重要な役割を果たしたのである。
なお、文献では、律令期の天皇、皇族および朝廷の高官の喪儀を司る氏族としては土師氏がよく知られている。先の場面でも視葬者として派遣されたのは土師連小鳥となっている。土師氏のこうした職掌は古墳時代以来と言うことができるだろう。
和田晴吾『古墳と埴輪』(2024年)、125頁
和田氏は、古墳時代の巨大前方後円墳を頂点とする階層的秩序の背景に、古墳造りの専門集団が存在し、その職掌を律令制下の土師氏が継承するといわれます。
また、造墓のために組織化された集団は軍事組織として機能し、鉱物資源や特殊な特産物も交換経済が生み出す膨大な富もなかった古墳時代の列島において、大王は、王権の持つ最大の富であった人を最大限に動員し、人海戦術で巨大な前方後円墳を造ることで、持てる軍事力と権勢を示したといわれます。(同書126、142頁)
『姓氏録』によると、土師宿禰は、兄の飯入根に言われて神宝の貢上に付き添った甘美韓日狭(可美乾飯根)の後裔氏族とされます。
『紀』仁徳即位前紀の額田大中彦の「山守」の話、兄の大山守、『紀』顕宗紀の「陵戸に充て、兼ねて山を守らしむ」という記述から、古墳造りの専門集団は、土師氏以外の武日照後裔氏族、武日照兄弟神の天津彦根後裔氏族を含み、「山守」とよばれていたのではないかと考えます。(『尾張国風土記』逸文のホムツワケ伝承で出雲神を祭祀する日置部が大山守の後裔氏族なのもそのことを示します)
3世紀半ばから続々と古墳が造られた約200年のあいだ、出雲系の古墳造りの専門集団によって組織化された社会は概ね安定的に推移し、王権の統合もゆるやかながら確かなものであったとみられます。
そのようななかで、異質の王が現れ、古墳造りの専門集団の奉祭する神宝を奪ったならばどうなるのか。
5世紀後半、古墳時代中期から後期への移行期に、それまでの古墳群が示す政治勢力が急速に衰退・消滅し、6世紀前半の摂津三島の今城塚古墳の築造により復活します。
『延喜式』諸陵寮によると、片丘の天皇陵は、吉備津彦の父の孝霊天皇の「片丘馬坂陵」のほか、5世紀末の顕宗天皇・武烈天皇の「片丘石杯陵」(同じ陵名)の3陵で、『紀』に、神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛ではないほうの妃の子が片丘に住み、そこで殺されたことがみえます。(→ 片丘馬坂陵・片丘石杯陵)