坐摩神社と倭直・阿曇連

『延喜式』神名帳の河内国西成郡にみえる坐摩神社は、大阪府大阪市中央区久太郎町に鎮座しますが、現社地は、寛永年中(1624〜44)の遷座によるもので、旧社地は、大阪市中央区石町にある御旅所といわれます。

旧社地のあたりは、古代から中世にかけて、渡辺津とよばれた淀川河口の要衝で、鬼退治で有名な渡辺綱の後裔渡辺党の拠点として知られ、坐摩神社の神官家も渡辺綱の後裔とされます。

京都市山科区安祥寺蔵の嘉元4年(1306)の銘をもつ、旧安曇寺鐘銘に「摂州渡辺安曇寺洪鐘一口」とみえ、渡辺の地に「安曇寺」が所在したことを示します。

「安曇寺」は、『続日本紀』天平16年(744)2月23日条にみえる「安曇江」に所在したといわれ、『紀』白雉4年(653)5月条文注には、「阿曇寺」で病に臥す学問僧の旻を、孝徳天皇が見舞ったことがみえます。

「阿曇寺」「安曇江」は、阿曇連と関係する土地で、阿曇連の奉祭する志賀海神社の鎮座する福岡県の志賀島とともに有力な拠点とみられています。

『住吉大社神代記』「天平瓮を奉る本記」に、「為賀悉利祝古海人」がみえます。

「古海人老父」に、田の蓑・笠・簸を着せ、天香箇山の土を取らせ、天平瓮を造り、住吉大神を祭祀したことが記されますが、『紀』神武即位前紀戊午年9月条に、同工異曲の記述がみえ、倭直の祖、椎根津彦が蓑笠を着て老父の姿となり、宇陀の弟猾が箕を着て老嫗の姿となり、天香山の土を取りに行ったことが記されます。

『住吉大社神代記』の「為賀悉利祝古海人」は、『紀』では椎根津彦と弟猾となっています。

「為賀悉利祝」は「古海人」とあるので、海上交通に関わる倭直の祖椎根津彦に符合し、坐摩神の祭祀に倭直が関与していたと推測されます。

このようにみてくると、坐摩神は、倭直・阿曇連と関係を有することがわかります。

倭直・阿曇連は、他にも複数の事象においてペアでの関与が認められます。(→ ホデミと倭直・阿曇連)(→ 「渟名川」と倭直・阿曇連)(→ 住吉仲皇子の乱

また、『住吉大社神代記』に、坐摩神社の起源についての記述がみえます。

一、猪加志利乃神二前。一名は、為婆天利神なり。

〔元より、大神居坐して唐飯聞食す地なり。〕

右、大神は、難波高津宮御宇天皇の御世に、

天皇の子波多毘若郎女の御夢に喩覚し奉らく、

「吾は住吉大神の御魂ぞ」と、

「号は為婆天利神、亦は猪加志利之神ぞ」と託りし給ひき。

仍りて、神主津守宿禰をして斎祀らしめ、

祝に為加志利津守連等をして奉仕らしむ。

神戸二烟を充て奉る。神田七段百卌四歩。

即ち、西成郡に在り。

坐摩神は、難波高津宮御宇天皇(仁徳)の子、波多毘若郎女(草香幡梭姫皇女)の夢に現れたことが記され、また「吾は住吉大神の御魂ぞ」と、その神格が住吉大神と関わりがあることが示されます。

倭直・阿曇連と住吉大神の関係は、応神誕生伝承・履中即位前騒乱においてもみられます。

坐摩神について、宮中神のなかにも「座摩巫祭神五座〈並大、月次新嘗〉、生井神、福井神社、綱長井神、波比祇神、阿須波神」とみえ、『延喜式』臨時祭に、座摩巫は「都下国造氏童女、七歳已上の者を取りて充つ」とあります。

「都下国造」の「都下」について、『紀』仁徳紀38年7月条にみえる「菟餓野」(大阪府大阪市北区兎我野町に比定)とみる見解と、ツゲと読んで、大和国山辺郡の都介(都祁・闘鶏・都家)とみる見解に分かれています。

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