宮主矢河枝比売と木幡・岡屋津

『記』に、応神天皇と宮主矢河枝比売の話がみえます。

応神天皇は、宇遅野から葛野を見て、次のような歌を詠みます。

千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ

木幡村まで来た時、「丸邇の比布礼能意富美が女、名は、宮主矢河枝比売」という美しい娘に出会い、次の日に娘の家の宴会に招かれます。

応神天皇は、宴会で次のような歌を詠みます。

この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹

横去らふ 何処に至る 伊知遅島 美島に著き

鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ ささなみ道を

すくすくと 我がいませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子

後姿は 小楯ろかも 歯並は 椎菱如す

櫟井の 丸邇坂の土を 端つ土は 肌赤けらみ 下土は 丹黒き故

三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉画き 此に画き垂れ

遇はしし女 斯もがと 我が見し子ら 斯くもがと 我が見し子に

転た蓋に 向ひ居るかも い添ひ居るかも

着眼点は、つぎのとおりです。

① 岡屋津

応神天皇の歌に、宴会で饗された蟹は、越前の角鹿で水揚げされて、琵琶湖沿岸の「ささなみ道」を経て、山背の木幡へ送られてきたと歌われています。

木幡(京都府宇治市木幡)は、かつて京都盆地南部にあった巨大な淡水湖である巨椋池の東端に位置し、その南に岡屋津(京都府宇治市五ヶ庄の西部)がありました。

岡屋津は、宇治川・木津川・桂川の3河川が流入し淀川が流出する巨椋池に形成された津のなかでも、古北陸道へ接続することから近江を経て越前・若狭へ至る要衝として繁栄しました。

宮主矢河枝比売の父である丸邇比布礼能意富美は、こうした交通体系に深く関与していたと思われます。

岡屋津は、文禄3年(1594)、豊臣秀吉による、宇治川左岸の槇島堤の構築によって巨椋池から切り離されて衰退し、昭和初期の大規模な干拓もあって景観が失われ、現在にいたります。

② 許波多神社

木幡の地に、山城国宇治郡の名神大社の許波多神社(京都府宇治市五ヶ庄古川・宇治市木幡東中)が鎮座し、奉祭勢力は宮主矢河枝比売の一族とみられます。

『釈日本紀』所引『山城国風土記』逸文に「宇治郡 木幡社 祇社 名天忍穂長根命」とみえます。

天照大神の子神について、『紀』神代紀第6段一書第1・第2は「正哉吾勝勝速日天忍骨尊」、第7段一書第3は「正哉吾勝勝速日天忍穂根尊」、第9段一書第6は「天忍穂根尊」、第9段一書第7は「天忍骨命」と記し、「天忍骨(てんのおしほね)」「天忍穂根(てんのおしほながね)」は、許波多神社の祭神の「天忍穂長根(てんのおしほながね)」と酷似します。

『山城国風土記』逸文に「祇社」とあり、皇祖神が木幡に祭祀される理由が見当たらないことから、2神は別神とみられています。

しかし、③に示すように、矢河枝比売の一族は出雲討伐に関与した形跡があり、いっぽうで、皇祖神の天忍穂根はウケヒ神話で出雲臣の兄弟神とされ、両者に出雲という共通項が認められます。

また、木幡の北の、『万葉集』に「山背の石田(いわた)の社(もり)」と詠まれた石田の地に、出雲臣の祖神を祭神とする式内社の天穂日命神社が鎮座します。

③ 矢田部

④ 応神と角鹿の神の名称交換伝承

『記』『紀』に、応神と角鹿の神の話がみえます。

宮主矢河枝比売は応神の妃となり、宇遅能和紀郎子など3子をもうけますが、3子の動向は、木幡の利権がその後仁徳の一派に簒奪されたことを示します。

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