『紀』雄略紀9年3月条に、海外派兵の記述がみえます。
紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰ら、4人の将軍が派遣されますが、大伴談連が戦死し、大将軍、紀小弓宿禰も戦病死します。
ところが、その後、『紀』雄略9年5月条によると、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰が新羅に来て、小鹿火宿禰の配下の兵馬・船官などを奪い、百済王が設けた国境視察の場で蘇我韓子宿禰を射殺しました。
紀小弓宿禰の墓が和泉国日根郡の淡輪に造られることになると、小鹿火宿禰は、喪のため倭国に戻りますが、「僕、紀卿と共に天朝に奉事るに堪へじ。故請ふ、角国に留住らむ」と言って、紀大磐宿禰との絶縁と王権の仕官辞退を表明しました。
『紀』に、次のようにみえます。
是の角臣等、初め角国に居り。
角臣と名けらるること、此より始れり。
小鹿火宿禰は、紀小弓宿禰の兄弟と推測され、紀臣の分裂といえます。
角国は、周防国都濃郡・佐波郡に比定され、「国造本紀」に次のように記されます。
都怒国造 難波高津朝 紀臣同祖都怒足尼児田鳥足尼定賜国造、
「須万・須々万・中須一郷にて文治・建久の比迄は紀ノ村と唱来候」(『防長風土注進案』(天保12年(1841)成立))の記述から、角国の中心地、周防国都濃郡都濃郷は、山口県周南市須々万本郷・須々万奥・中須・須万・金峰に比定されます。
(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):山口県:都濃郡、周防国>都濃郡>都濃郷)
角臣が海上交通に関与することから、瀬戸内海沿岸の港津を含めた領域である可能性があります。
また、『紀』顕宗紀3年2月条にみえる月神の祭祀者、壱伎県主先祖押見宿禰の母は、紀大磐宿禰の娘であり、顕宗朝の月神祭祀に紀大磐宿禰が関与していることがわかります。(→ 葛野坐月読神社)
また、『紀』顕宗紀3年是歳条に、紀大磐宿禰に名が酷似する紀生磐宿禰の話がみえます。(→ 阿賢移那斯・佐魯麻都)
◇ 周防国佐波郡について、『紀』応神紀に住吉大神伝承の異伝がみえる。また、住吉大神と深い関係にある河内国高安郡の恩智神社は、周防国佐波郡の玉祖神社が高安郡に勧請される際に、多くの神地を与えている。(→ 沙麼県主の祖内避高国避高松屋種)(→ 玉祖神社と恩智神社)