『丹後国風土記』逸文に、比治の真奈井の羽衣伝説がみえます。
丹後国丹波郡の比治の山の頂の麻奈井で8人の天女が水浴していたところ、和奈佐という老夫婦が1人の天女の羽衣を隠し、天に帰ることが出来なくなった天女は夫婦の娘として留まります。天女には酒を醸す才能があり、夫婦に財を齎しますが、ある日突然、夫婦は娘を追い出します。天女は、竹野郡の船木の里の奈具の村に至り、奈具社に坐す豊宇加能売命となりました。
「奈具社」は、『延喜式』神名帳の丹後国丹波郡にみえる奈具神社で、京都府京丹後市弥栄町船木奈具に鎮座します。
嘉吉3年(1443)の洪水で奈具村全村が流失し、祭神は外村の溝谷神社に移されて代表者が参拝し、その後現社地に社殿が再建され現在に至ります。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:竹野郡>弥栄町>船木村>奈具神社)
また、『延喜式』神名帳の丹後国丹波郡に比沼麻奈為神社がみえ、京丹後市峰山町久次の比沼麻奈為神社、もしくは、峰山町鱒留の藤社神社に比定されます。
『丹後国風土記』逸文の「比治の山」について、比沼麻奈為神社後方の久次岳と藤社神社後方の磯砂山に比定する説があります。
磯砂山は、峰山町と大宮町の境にあり、比治山・比沼山・足占山ともよばれ、明治以前は女人禁制の山であったと伝え、『宮津府志』(宝暦11年(1761))と『丹哥府志』(宝暦11~天保12(1761~1841)は、常吉側登山路の6合目、大成登山路との出会いから南約300mの地の女(雌)池を「比治の真奈井」とします。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:中郡>峰山町>五箇村>磯砂山)
また、「比治の真奈井」は、伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の元宮とされます。
『止由気宮儀式帳』(延暦23年(804)奏上)は、天照大神の託宣によって雄略朝に丹波国比治の真奈井にいた御饌神(止由気神)が山田原へ移され、天照大神の朝夕の御饌にあずかることになったという外宮の鎮座由来を記します。
また、丹後一の宮の籠神社を伊勢神宮外宮の元宮とする伝承も認められます。
『成相寺旧記』所引「建武2年(1335)7月日付大谷寺衆徒勅願寺訴状」に「所謂豊受太神宮之本宮籠宮大明神」、天和年間(1681~84)の写と称する「籠大明神縁起秘伝」(海部家蔵)に「夫当社籠大明神ハ即豊受大神也」「人王十代崇神天皇ノ御宇天照大神幸于与謝宮ニ、与謝宮ハ則是籠大明神也」と記されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:宮津市>大垣村>籠神社)
丹後ではこの他に、大江山の東南麓、宮津街道に沿う地域に、「元伊勢大神宮」とよばれる皇大神社(京都府福知山市大江町内宮)、「外宮」「元伊勢」とよばれる豊受大神社(大江町天田内)が鎮座します。
鎌倉時代成立の『神道五部書』以降の伊勢神道では、豊受大神は「与謝宮」から迎えたとされ、『丹後国加佐郡旧語集』(享保20年(1735))、『加佐郡誌』(大正14年(1925))所引「神社明細帳」によると、天照大神は伊勢内宮に遷る前に皇大神社に、豊受大神は伊勢外宮に遷る前に豊受大神社に鎮座したとあります。
いっぽう、『宮津府志』は、皇大神社・豊受大神社について、用明天皇皇子の麻呂子親王による建立説を記します。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:加佐郡>大江町>内宮村>皇大神社、大江町>天田内村>豊受大神社)
丹後の元伊勢、「与謝宮」伝承は、「こもり」と関わるのではないかと思われます。
籠神社は、「こもり」ともよばれ、籠杜または籠守の字を宛てることがあります。(『国史大辞典』(JapanKnowledge):籠神社)
『和漢三才図会』(1713年)は、与謝宮を「与謝郡川守」にあるとし、豊受大神社のある天田内村が江戸時代に河守組23ヵ村に含まれていたことを記します。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:加佐郡>大江町>天田内村>豊受大神社)
「川守」「河守」は、天田内に南接する、宮川が由良川へ合流する要衝の大江町河守(こうもり)で、『和名抄』丹後国加佐郡川守郷の遺称地とされます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):京都府:加佐郡>大江町>河守町)
また、用明天皇皇子の麻呂子皇子について、『紀』用明紀元年正月条に、葛城直磐村女広子の子で当麻公の祖とあり、「麻呂子山」の麓の當麻寺(奈良県葛城市當麻)の北北西1.75kmの至近に、掃守連の本拠地「加守(かもり)」があります。
「こもり」は「掃守(かもり)」と同義で、一連の丹後の元伊勢伝承の共通項とみられます。
「こもり」の名称は、大和国十市郡多の小杜神命神社、大和国添上郡の率川神社にもみられ、伊勢神宮の「磯部」と深く関わる指標ではないかと考えます。(→ 彦波瀲武鸕鷀草葺不合と掃守)