佐々貴山君の起源伝承

『紀』雄略即位前紀に、雄略による市辺押磐皇子の謀殺の話がみえます。

雄略は大王位を争っていた市辺押磐皇子のもとに人を遣り、「近江の狭狭城山君韓帒によると来田綿の蚊屋野に猪や鹿が沢山いるそうですよ」と狩りに誘い出して殺しました。

雄略の没後、王位を継いだ清寧天皇が亡くなり、後継王が不在となった時、播磨の志染で市辺押磐皇子の遺児2人が偶然に発見され、弟、兄の順で即位し、顕宗天皇、仁賢天皇となります。

『紀』顕宗紀に、大王となった顕宗が父の遺骨を捜し始めたことがみえます。

顕宗紀元年2月条に、近江国狭狭城山君の祖倭帒宿禰の妹、置目の功により、来田綿蚊屋野で市辺押磐皇子の遺骨が見つかったことが記されます。

顕宗紀元年5月条には、妹の手柄を称えて倭帒宿禰に狭狭城山君を賜姓し、謀殺に荷担した罰として韓帒宿禰を陵戸(墓守)として籍帳から削除し山部連に隷属させたことがみえます。

「来田綿の蚊屋野」は、古くから「蒲生野」とよばれた地域の一角とみられ、近江国蒲生郡の綿向山山麓に比定され、一連の話は、蒲生郡の郡領氏族である佐々貴山君の起源伝承となっています。(→ 蒲生野と来田綿蚊屋野

佐々貴(狭狭城)山君に、「韓帒宿禰」「倭帒宿禰」の2系統があり、前者は謀殺に荷担した「悪人」で、後者は遺骨を守った「善人」というのは、いかにも戯画的であり、寓意を込めた表現と推測されます。

佐々貴(狭狭城)山君は、『紀』孝元紀7年2月条の系譜に、大彦後裔の7族の1つとしてみえ、『姓氏録』でも大彦後裔とされます。

いっぽう、「蒲生野」は出雲との深い関係が認められ、関係勢力は天津彦根後裔の蒲生稲寸と推測され、当該伝承は、「蒲生野」の勢力が天津彦根から大彦へ転換したことを描いているのではないかと考えます。(→ 近江国蒲生郡の「出雲」の属性

「山君」「山部」は、鉄の精錬・鍛造勢力を示します。

佐々貴山君の起源伝承は、王権による近江国蒲生郡の鉄の精錬・鍛造勢力の掌握を描いています。

◇ 顕宗・仁賢・武烈の時代の記述について、『記』『紀』の神武段・崇神段と様々な相関性がみられます。(→ 顕宗・仁賢・武烈と吉備津彦

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