長門の住吉坐荒御魂神社

『紀』神功摂政前紀に、仲哀天皇が住吉大神の祟りで筑紫橿日宮で亡くなり、遺骸が穴門豊浦宮に遷され殯が行われ、「穴門の山田邑」に穴門直践立を神主として住吉大神が祭祀されたことがみえます。

「穴門(あなと)」は、律令制下の長門国の旧名で、古くは長門国の豊浦・美祢・厚狭の3郡を含む地域を示します。

国府の置かれた豊浦郡には、関門海峡・瀬戸内海の交通の要衝である豊浦津があり、穴門豊浦宮の旧跡とされる、式内社の忌宮神社(山口県下関市長府宮の内町)を含む長府一帯に比定されます。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):山口県:豊浦郡、下関市>長府>忌宮神社)

8世紀の史料によると、豊浦郡の郡領氏族は、額田部直となっています。

周防国正税帳(天平10年(738))に、擬大領 額田部直広麻呂、『続日本紀』天平12年(740)9月24日条に、少領 額田部直広麻呂、『続日本紀』神護景雲元年(767)4月29日条に、大領 額田部直塞守の名がみえます。

『和名抄』長門国豊浦郡額部郷は、額田部に因むもので、郷域は、豊浦津を含む、長門国の政治的中心地域に比定されます。(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):山口県:長門国>豊浦郡>額部郷)

額田部は、『記』ウケヒ神話の系譜に、天津彦根後裔氏族とあります。

いっぽう、住吉神の祭祀地「穴門の山田邑」は、豊浦津より約3㎞内陸へ入った、周防灘と響灘の中間地点にあたる、『延喜式』神名帳にみえる長門国豊浦郡の名神大社、住吉坐荒御魂神社(山口県下関市一の宮)の鎮座地に比定されます。

住吉坐荒御魂神社は、『延喜式』臨時祭条には「御蔭社」と記されます。

祭祀者の穴門直については、『旧事紀』「国造本紀」に、次のように記されます。

穴門国造

桜井田部連同祖 邇伎都美命四世孫速都鳥命定賜国造

同祖関係にある桜井田部連、祖神の邇伎都美については明らかではありませんが、「直」のカバネからみて、額田部直の一族と考えられており、天津彦根後裔氏族と住吉神の関係が窺われます。

天津彦根と住吉大神の関係は、摂津国武庫・菟原・八部郡及び周防国においても認められます。(→ 広田神社・生田神社・長田神社と天津彦根)(→ 沙麼県主の祖内避高国避高松屋種

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