蒲生野と来田綿蚊屋野

『紀』雄略即位前紀に、市辺押磐皇子が雄略に「来田綿蚊屋野」で殺されたことがみえます。

「来田綿蚊屋野」は、古くから王権の薬猟場であった「蒲生野」の一角とされます。

『紀』天智紀7年5月5日条に、次のようにみえます。

天皇、蒲生野に縦猟したまふ。

時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に従なり。

この薬猟の際に、額田王と大海人皇子が交わした歌が『万葉集』にみえます。(巻1-20・21)

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも

「来田綿蚊屋野」は、近江国蒲生郡に属し、綿向山西麓、滋賀県蒲生郡日野町音羽・北畑の辺りに比定されます。

綿向山は、鈴鹿山脈主峰御在所山の西方の山峯であり、中世には修験道の霊山として信仰されました。

市辺押磐皇子の墓について、『紀』に「双陵を造った」、『記』に「造陵後に顕宗が遺骨を持ち帰った」とありますが、『延喜式』諸陵寮に記載はなく、現在治定されている滋賀県東近江市市辺町若宮神社東側の2つの円墳は、横穴式石室墳を改修したものであり年代的に疑問視されています。

(『日本歴史地名大系』(JapanKnowledge):滋賀県:蒲生郡>蒲生野、蒲生郡>日野町>音羽村・北畑村、八日市市>西古保志塚村>伝市辺押磐皇子墓)

また、飯田武郷『日本書紀通釈』(1899年成立)所引「大安寺資財帳」「大安寺三綱記」に「来田綿」に関する記述がみえます。

「大安寺資財帳」に「近江国百五十六町五段百二十八歩、蒲生郡来田綿…」、「大安寺三綱記」に「近江国分西明教寺、在蒲生郡綿向嶽下…神亀五年始号来田綿寺」とあります。

しかし、坂本林平「楓亭雑話」(長寸神社蔵)に、椿井政隆とみられる人物が、「新しい紙」に記された「南都大安寺資財録」を持って、19世紀初め頃、当地に来たことが記されています。(馬部隆弘『椿井文書ー日本最大級の偽文書』2020年、97~100頁)

一連の偽文書に属する可能性があります。

◇ 綿向山を御神体とする綿向馬見岡神社(滋賀県蒲生郡日野町村井)に「出雲」の属性が認められる。(→ 近江国蒲生郡の「出雲」の属性

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