苅羽井の猪飼

『記』安康記に、市辺押磐皇子が雄略に殺された後、難を逃れて行く市辺押磐の遺児2人が山代の刈羽井で猪飼の老人に食糧を奪われたことがみえます。

遺児2人は、雄略の後を継いだ清寧天皇が亡くなり後継王が不在となった時、播磨の志染に隠れているところを発見され、弟、兄の順で即位し、顕宗天皇、仁賢天皇となります。

『記』顕宗記によると、大王となった顕宗は、この猪飼を飛鳥河の河原で斬殺の刑に処しました。

「山代の刈羽井」は、木津川の渡河の要衝「樺井の渡」、山城国綴喜郡大住郷の樺井月神社の旧社地周辺に比定され、関係勢力は大住隼人と推測されます。(「樺井の渡」は、京都府山城町上狛と木津町木津町を結ぶ説もあります)(→ 山城国綴喜郡の月読神社・樺井月神社

◇ 『記』『紀』垂仁段にみえるカニハタトベ・カリハタトベも当地の関係勢力と思われる。(→ カニハタトベ・カリハタトベ

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